「講演と公園と」
とある講演会に行って来た。
歴史に関する新説を唱える基調講演なのだが、サブタイトルに惹かれて、気づけば申し込みをしていた。
スーパーの壁に貼ってあるチラシなぞ、めったに目もくれず、ナンパをされても無視を決め込んでいたものだけれど、人間のレディで言えば、魔性の女とも喩うべき抗いがたい何某かに、私は誘惑されない訳にはいかなかった。
会館の時計を見遣り、鳴りもしない開場のベルの呪文にかかったかのように、扉を開ける。
映画館…?
一瞬、チケットを懐にまさぐりそうになったが、正気を取り戻して、我が身体と心がリラックスを享受できる、天が用意しているはずの席に、抱かれる。
うん、悪くない。
悪くないが、私の僅かな所有物は、隣の席を、やがて来る名無しの権兵衛殿との壁を作るほどには、シートを倒すだけの情熱を持ち合わせてはいない。
こんな時の一時間は、何処かに半時間くらいを落としてしまったのじゃないかと思える。
しかし、私は知っていたのだ、始まる間際になって、小うるさい客が、後ろに座を占めるものだ、ということを。その我が世界観の方程式は、憎らしいほどに正確で、わたしを裏切らなかった。そういう輩に限って、声がでかい。あなた方の講演を聞きに来た訳ではない、というクレームは時の矢で飛ばしてしまうに限る。
そそくさと移動し、まだ誰もエサを見つけていないらしいブルーオーシャンにあり付いた。
ここはいい、sideの席ではあるが、お陰で鷲の気分が味わえる。
然るに、人生の法則はここでも発動した。相対性理論の唱道者が時間の遅れをいなして、前の席に座したが、おもむろに取り出したタブレットが眩しくてかなわない。
ここでブルーライト・ヨコハマを唄うつもりはないのだ。
人工の木漏れ日にも別れを告げて、三度目の正直と書かれた張り紙の席に、ようやく時が規則正しい行進をし始める。
壇上の司会者は、どうしてこうもご多分に漏れず、喋りがたどたどしいのだろう。恐らく、本丸を際立たせるための巧妙な仕掛けなのだ。多くの素人がいてこそ、プロはピノキオを演じられる。もたついた進行は、初めからそのような音楽記号を記してある、と聞く…いやいや、いま自分で勝手にそう結論付けただけのこと。
着飾った花瓶もなく、如月を匂わせる薫りもしない舞台は、少し寂しそうだ。
通説の黒が、どんどん白に裏返されていくのは痛快爽快。
そうそう、この先生が有名な歴史ドラマを手掛けた御大とは露知らず。後の質問Timeで、追っかけのガールが、持参した著書に誕生日記念にサインが欲しいとごねた、休日脚本らしきエピソードによって、その名の鳴り響く音の大きさに驚いた次第。
ときに、私の前で船を漕ぐ紳士は、何をしに来たのか。一つ二つ席の離れた淑女が、襲い来る熊を警戒するかの如く、チラチラ見ているのも、いとおかし。
湖水の中にいるのではなかったと、今更のように喉が渇いているのに気が付いた。いや、半分はそうだったかもしれない、息を止めていた時があったようにも思うのだ。
1ヶ月ほど早い壇前の雛人形が、水を得た魚よろしく質問をする。子供の発するボールは、まだ変化球を知らない。外れても、誰かに当たっても、角を立てる者などいない。大いに立春を沸かす。
私は、この公園を図らずも楽しめた。一つの講演には、それに付随する幾つもの自然と人工物とがあるものだ。
そういう訳で、「講演」と「公園」とは、ただ音の響きだけに留まらない、運命のイタズラにも似た、我々の預かり知らない大昔の馴れ初めがあったのかもしれないなと、2と4だけの日に、二文字の言葉を2つ並べ四文字にして掛けてみたものである。