
フォトグラフ
写真に写るのがあまり好きではない。
客観的に見た自分は思っている以上に不恰好で、
心の中に渦巻いている生々しい感覚や、
隠しておきたい過去や恥ずかしい部分が浮き彫りになる気がするから。
(いや普段そこまで深刻に考えているわけではないけど)
写真を通して誰かの記憶に残っていくのは、なんだかあまりピンとこない。
一定期間が来ると、人物が写った写真も画像もほとんど消してしまう。
人間関係はどんどん移り変わって、
作り変わっていくのに、
手元に思い出ばかり残していては私はそこから動けなくなってしまうって、
そう思っていた。
だからだろうか。
自分の過去の顔が思い出せない。
私はものすごく抽象的な人間で、
気持ちははっきりしないし、
好きなものはまちまちだし、
とにかくとてもダサい人間だと思って生きてきた。
容姿もあるけど、
周りにいる人らの個性が強すぎて、
私ってなんてダメなんだろうと。
自意識と仕様もない気持ちで濁っていた。
写真は消してしまうのに、
ずっととってあるのは携帯電話だ。
特に開いて見たりするわけではないけど、捨てられなくてとってある。
それを久しぶりに見てみたら、
なんだか不思議な気持ちになった。
好きな服を着て、好きな髪型をして、
なんとなく笑ったような顔で写った自分がいた。
物凄くセンスがいいとか、
いろんな髪型をしていたわけでは全くないけど、その時好きだった物をちゃんと纏っていたことに今気がついた。
完璧主義な思考回路が、主観を奪って誰かの正解にリンクする。
自分がどう思ってどうしたいのか、
どうありたかったのかが大切で、
人からどう思われるかなんて、
さほど気にしなくて良かったはずなのに。
振り返ってそう思うのは、
成長したってことにしていいのかな。
私は多分、
若い時間に経験した方が良かったことをほとんどやっていない。
すっ飛ばしている。
失敗することも、なりふり構わずがむしゃらになることもしなかった。
主観不在のまま、誰かの物差しで測って作った場所で生きてきた。
自由にしているようにみせながら、
物凄く窮屈で苦しかったな。
今は違う。
もう大人だけど失敗もするし、
自分の夢に物怖じしないように、
奮い立たせて生きている。
気づいた今がその時。
自分にとってのタイミング。
そう思っているから、もう遅いなんて後悔はきっとない。
他人にとってのタイミングと、
私のタイミングは違って当たり前だから。
最近はもうよく眠れるようになったし、
息苦しく思うこともなくなった。
誰かの写真を消すみたいに、
思考回路を自分へ取り戻す。
そうした分だけ、他人を他人としてそのまま受け入れることができるようになる。
結局のところ、自分に優しくなれなくては誰かに優しくなんていられない。
他人を大切にするように、
自分を愛するように、
そうあるようにいられたならって。
ぼんやりしていたピントが合って、
好きになれなかった自分の顔も
まあいっかなんて思える。
これからは、自分の顔や誰かの顔、
忘れないように写真に収めるのもいいかもな。
確かにあった過去を、
その先の今を生きていることを忘れないように。