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努力の仕方。
思えば産まれてから今日まで、何かを成すために死に物狂いで頑張ったことが無いかもしれない。
主体性の無い生き方。
学生という生き物から切り離されて、もう十数年経つというのに。
私は相変わらず主体性がなくて、
大人のフリをして生きている。
正しく無いことを、もっと沢山すればよかった。
心の声をもっと真摯に聴いてあげればよかったなって。
時間の経過と比例して、後悔は積もっていくのかもしれないけど。
痛みや悲しみは取り去ることはできない。刺さった破片を一つずつ取り除いていくように、丁寧に生きていくことしか。
雁字搦めになった思考を少しずつでも変えたいのです。
努力の仕方が分からないなんて、
若者世代だけじゃなくて、中途半端に大人になった私みたいな人も沢山いるのかもしれないな。
誰かに話すことなんてなくて、
きっとみんな一人でどうしようもなく抱えたまま、フラフラと心許なく毎日を消費しているのかもしれない。
何かの所為にしたいわけじゃない。
楽になりたいわけじゃない。
どうせ苦しいのなら、自分にとって意味のあることを頑張りたい。
そう思うだけだけど。
「隣の芝が青い時も、変わらずにきっと花が咲いてる」
今年好きになったアーティストのひとつ、ポルカドットスティングレイの曲に出てくる言葉の一節です。
シンプルな思考にこそ、はっとさせられるし、心の中にすんなり溶けていくような。
唯一自分の中で作品やアーティスト、
表現者に呼ばれているような、
呼応するような不思議な感覚を昔から信じている。
昨日、いつもなら絶対にいかないだろう大阪公演のみの舞台を観に行ってまた確信した。
勿論好きな演者さんが出ているので興味はあったのだけど、数行のあらすじを読んで、これは絶対に観るべきだって強く思った。
(案の定今までみた舞台で一番心に突き刺さった。流血してそう。当分治らなそう)
価値観が変わってしまうような、
自分の中にもその欠片が眠っていたことに気づかせてくれるような出会いには、必ず強い直感力が働く気がする。
必要な人の元へそれがちゃんと届くのは、作り手が努力している証。
遠くにいても互いを知らなくても、
今はSNSがあるから
好きな人には好きだって伝える。
この作品が好きだって、あなたの作るものにどれだけ感動したか、救われたか。
伝えられる距離にいる人には、小さくてもそれを伝えたい。
ちゃんと私のところまで、届いたよって。
昔からずっと思っていること。
誰かに憧れたり眩しく感じるのは、
意味なく比べてしまうのは、
心血を注いで作り上げたものがあまりにも美しいから。
私ももっと気力をだして生きることをしたい。
変わらずにきっと、私の中にも花は咲いている。
そのように思って。