讃美歌。
#8月31日の夜に
このタグを目にして、なにか書きたいと思った。
今日までの自分の為に、
そして、たった1人の誰かのために。
届くかも必要かもわからない、宛先のない文章。
私の話。
中学2年生の始まりから、私は急に今の私になった。
それまでは特別なにかを疑うこともなく、
良いも悪いも無しに流れに任せて生きていたと思う。
主観的になると思春期スイッチが入っただけだ、
なんて到底割り切れないのだけど、
14歳になる頃急に、全てを無理して取り繕って生きていたことに気づいてしまったのです。
色々なことがあったけれど、
死にたくなる程のいじめは受けなかったし、
虐待やネグレクトを受けたわけでもない。
きっと普通で、普通であることである種恵まれていたのかもしれません。
変化が訪れた時、自分とそれ以外の全てを信じること、関わることが難しくなった。
他人がいきなり不気味な存在に思えて仕方がなかったのです。
どんな顔で、どんな声で、どんな気持ちで他人と向き合っていたのか。
まるでリセットボタンが押されたみたいに消えて無くなってしまいました。
身体の内側にこんなに深い恐怖や嫌悪を抱えて生きていたなんて、誰も知らなかったかもしれません。
私でさえも14年間気がつかなかったくらい。
何が悲しいのかも分からないまま急に涙が止まらなくなったり、教室や集団の中に居ることがたまらなく居心地が悪くなることが増えていきました。
次第に保健室や階段塔で過ごすことが多くなって、
他人と自分との間に線を引くことが上手くできなくなっていきました。
必要以上に内面がとても脆くて、過敏で、
自分の心や日常を守るために殻に閉じこもる日々。
反して、家族や友人にはなるべく明るい自分でいなければいけないという強迫観念に苦しみながら中学時代を過ごしていました。
高校に上がってからも益々酷くなる一方で、
2年生になる頃には殆ど学校に行かず、登校拒否になりました。
死にたい、と漠然と思うようになったのもこの頃からです。
虐められてるわけでもないのに、と贅沢な自分を呪って否定して、
私を構成する大部分の要素の中心には他人が居座り、
自分の中にさえ自分の居場所がなかった。
学校に行かない時間、海辺の公園で景色を眺めたり
図書館で本をよんだり、散歩をしたり、
いつも外で過ごしました。
傍にはいつも音楽と物語があった。
それに付随する景観と世界があった。
幸いだったのは、自分の好きな物だけは忘れることなく手離さなかったこと。
物語や音楽に陶酔して、その世界の中で小さく呼吸を繰り返せていたこと。
厚意を向けてくれる人たちにさえ救われなかったのに、たった二つの大切なものが今日まで正気を保たせてくれていたと感じます。
完成された人間なんかどこにもいないんだ。
優れているかどうかなんて、ほとんど意味がなくて
意地を張ってでも自分が自分であることに、
それを育んでいくことに大きな意味がある。
他人なんてどこまでいっても他人でしかなくて、
だからどこまでも自分は自分でいるべきだった。
時間が経って大人になった私が創作の軸にしていることは、
学生という皮を脱ぎ捨てて大人になってからも続いた死にたがりの毎日の中で、
真夏の濁った頭で見上げた空の奥行きや
あったこともない人が作った音楽や物語の中に確かに在った情景、くりかえしみた不可思議な夢、
すべて一人きりでみて、感じて育んだ感覚です。
その原風景にいつだって背中をおされて、
守られてきたように思います。
誰かと共有できなくてもいい。
こうであるべき、なんて 最初からどこにもなかったのかもしれません。
誰かと繋がっていることよりも、
自分と自分の心が繋がっていることが何よりも幸いなことのように思います。
今、高校に行ってよかったと思うことは二つ。
保健室で読んだ「蛇にピアス」
心だけが不健康な私に、居場所を作ってくれた養護教諭の先生。
いつもマシュマロの浮かんだ外国のココアと、
お手伝いをするとたまにハーゲンダッツをご馳走してくれた。
時間が経てば流されるように消えていく沢山の生徒の中の私に、
たったひとり空気や木々と同じように、
当たり前にそこに在ることを大切にしてくれた。
「自我を殺すことは、やっぱり間違っているよ」
そんな大人に出会えたこと。
大切にしてもらえたこと。
そして死にたいほど何もかもに絶望感でいっぱいだった窮屈で狭い日常の中にも、
美しい物事が確かに在ったことに気づけたこと。
劣等感でいっぱいだったけれど、
今になって思えば私は1人で過ごすことを自分で選んでいた。
教室の外で過ごしたあの時間が無かったら、
きっと今私は何処にもいなかったと思う。
現代の学生はある種で恵まれすぎていて、
ある種であまりに悲惨だと感じる。
もしこのまとまりのない文章が誰かに届くなら、
あなたはあなたでいられる選択をするべきだと思う。心を殺すことに慣れてしまうのは、
本当にかなしいこと。
自分を失くしてまで大切なものは、学校には無い。
大人になっても苦しみや悲しみは拭えないけど、
次第に癒す術を覚えていく。
今生きて、文章を書きたいと思うのは、
ずっと寄り添ってくれた音楽や物語に感謝をしているから。
自分に似た誰かに届くような小さな光を、
自分の手から作り出したいと願うから。
それが出来た時初めて、自分自身も救われるような気がする。
8月31日の夜。
眠れないですか?
でも大丈夫、あなたを咎めることなんて
本当は誰も出来無いのだから。
死んだように生きていても今はいい。
9月1日の太陽の下で、何処かにいる誰かとすれ違うように生きていたい。
いつかあなたが作り出したなにかに、
私は深く感動したいです。
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