月へのいざない
ふと右側に目をやると、うっすらと助手席に霧がかかっている。今君が来た…と言うそれが合図。
いいよ、あの日みたいにそこで眠ってて。かすかに温かい場所をさぐりあて、僕は愛する人の手の辺りを握りしめた。
暫く無言で車を走らせると、少しだけ右肩が重く落ちて行く感覚に囚われる。君が「ここで止めて…」と言ってるみたいに思えてせつなくて、空を見上げるとまぁるい月がゴンドラみたいに揺れていた。
君はあそこに行きたいんだよね…。
いいよ、行っておいでよ。少し眠りながら僕はここで待ってるから。
さっきまで君がいた場所を撫でてみる。いつも霧になって現れる君との数年前のことを、もう思い出すことさえ辛すぎた。
毎週末になるとこうして海辺をドライブして、君はいつも「新婚旅行は月面のホテルに決めたから。」と冗談みたいにウィンクしてたね。
違う意味でその夢を、君は叶えたんだね…。
2011年3月11日、水のロケットは物凄い飛沫を上げながら君だけを空へと連れ去った。
いつも車を運転してたのは僕だったのに、君との最後の旅行でハンドルを奪われた僕は茫然と、「瓦礫」と言う駅に取り残されたまま凍える一夜を君なしで乗り越えた。
プロポーズも未だだったし結婚指輪を渡す時間さえ与えられずに僕たちは、互いの夢の中で誰にも祝福されない、余りにも静かで長い結婚式を無言で挙げた。永遠と言う言葉が無限のかなしみで、僕を包んで行く。
心の中で君が「永遠に、ありがとう。」とささやく声を聴いた夜、まだ余震が続く春の宵…。
…助手席に再び霧が立ち込めて、それが月から帰って来た君の合図だと分かり僕はそっと助手席の窓を閉めた。君にはもう寒さも温かさも分からないかもしれない。だけど僕にはまだはっきりと、君の放つ体温や匂いを感じることが出来る。
僕だけが生き続け、少しずつ君との年月から離れて行く。
5年が過ぎても50年が過ぎても、たとえ僕がこれから誰か別の人と人生を歩むことになったとしても、僕たちは永遠に月の新婚旅行を重ねて行くんだと思う。
君が再び戻って来るまでは、助手席の甘い霧を君だと思って抱きしめながら…。
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