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飛び出せ!佐久間探検隊

第十三回 悲劇の花将軍の終焉の地は堺にあった!


北畠顕家…

鎌倉末期に日本を二分した南北朝の時代、
「楠公さん」と今でも親しまれる楠木正成と共に南朝を支え、
楠公さん亡きあとは主力となった公家にして武将。

わずか12歳にして参議に任ぜられた天才であり、
かつその美しさから「花将軍」とも呼ばれました。
大河ドラマ「太平記」では、後藤久美子さんが演じてたほど。

しかし時代はやがて北朝へ。
顕家も奮戦しましたが、北朝の重臣である高師直の軍に敗れ、
討ち取られました。
この時顕家はわずか21歳。

後に明治になって顕家を弔う為に、
大阪市阿倍野区北畠の地に阿倍野神社が建立されました。

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そんな顕家の終焉の地は、意外な場所にありました。
探検隊はその地を訪れるべく、
阪堺電車の石津電停へと降り立った。

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踏切を渡り、東へと進む。
クルマはそこそこ通るものの、ひっそりとした感じの路地である。

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かつてここら周辺が戦場となったとは、にわかに信じがたい。
どちらかといえば、子供たちが遊ぶ風景が似合うような路地である。

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最初の交差点を南へと曲がる。

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曲がった先もひなびた感じの道路である。
実はココは紀州街道。
大阪と和歌山を結ぶ街道の一つであったが、
海上交通がライバルであった為、
五街道ほどの賑わいはなかった。

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すぐに橋に差し掛かる。
流れる川は石津川。
海に近いので流れは緩やか。

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橋の名は太陽橋。
現在の橋は昭和27(1952)年からの改修工事の際に、
架け替えられた橋である。

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橋の東側には阪堺電車の石津川橋梁が。

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西側には南海本線の立派なトラス橋が。

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ちょうど阪堺電車がのんびりとやって来た。
天王寺駅前行きの電車である。
日中は約12分間隔。
時間がゆっくり流れるようである。

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橋の中間付近。
穏やかな日差しに恵まれ、心も暖かな気分になりそう。

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橋を渡り切る。
このまま散歩と洒落込みたいが、
探検隊には使命があるのであった。

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渡り切ったあたりの場所に、小さな供養塔が。

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正面に回ってみる。
そう、この小さな供養塔こそが、
ここが顕家の終焉の地であることを表している。

建武5年5月22日(1338年6月10日)、
ここ石津の地で顕家は高師直と石津の合戦を繰り広げた。
連戦により数を減らしていた顕家の軍勢に対し、
師直の軍勢は1万8000の大部隊。
奮戦もむなしく、顕家以下南朝の軍勢は全て討ち死にしました。

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供養塔の横にある説明文の看板。

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昭和12年に建立された供養碑。

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探検隊も供養塔に手を合わせる。

その後の南朝の運命を決定づけた人物の終焉の地としては、
ひっそりとしていたのが印象的だった。
顕家の事を知る人も多くはなく、
地元のお婆さんが手を合わせているぐらい。
観光地として大賑わいとなるよりも、
こうひっそりとしていた方が、
戦場に散った命を慰めるには相応しいと思う。

「悲劇の花将軍の終焉の地は堺にあった!」

おわり。

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