安井息軒〈擬乞禁夷服疏〉05

原文-05:昔者周辛有適伊川、見被髮而祭於野者曰、「不及百年、此其戎乎、其禮先亡矣」。後秦晉移陸渾之戎于伊川。終如其言。故禍不徒生、必有其兆。唯智者見微而知著、而愚者反謂之迂。是以天下之禍、滔滔不可止也。

訓読-05:昔者(むかし)周の辛有 伊川に適(ゆ)きて、被髮にして野に祭る者を見て曰く、「百年に及ばずして、此れ其れ戎とならんか。其の禮先づ亡びたり」と。後に秦・晉陸渾の戎を伊川に移し、終ひに其の言の如し。
 故に禍ひは徒らには生ぜず、必ず其の兆有り。唯だ智者のみ微を見て著を知るも、愚者反て之を迂と謂ふ。是を以て天下の禍、滔滔として止むべからざるなり。

意訳-05:〔《春秋左氏傳・僖公二十二年》の記事によれば、〕大昔に〔周王朝が鎬京(長安)から洛邑(洛陽)へと遷都した「平王東遷」(前738年)に際して〕、周王朝の大夫である辛有が〔洛陽市南部の〕伊川〔という土地〕まで来たところ、〔髪を結わず〕ザンバラ髪のまま野原で祭祀している人を見て、「百年を待たずして、この辺りは野蛮人の居留地(戎)となり果てるだろう。〔中原の習俗では、髪は結い、祭祀は廟内で執り行うものだが、この辺りの住人は異民族(戎)の装束と祭祀をすでに受け入れている。中原本来の〕その礼制(禮)がすでに廃れている〔以上、遠からず異民族に同化することは避けられまい〕」と予言した〔という〕。後年、秦国と晋国が〔甘粛省付近にいた〕陸渾という異民族(戎)を伊川に移住させ〔たことで、伊川は異民族(戎)の居留地となっ〕て、とうとう〔辛有の〕その言葉どおりになった。
 だから、災難(禍)は原因もなしに生じるわけではなく、必ずその兆候がある。ただ智者だけがちょっとしたこと(微)から問題の全体像や本質(著)を把握〔して、抜本的な解決策を提言〕できるが、〔例えば、《論語・子路》にも、孔子が政治改革について問われて「名を正さんか」と答ええたところ、弟子の子路が「これだからな、孔先生が回りくどさときたら」(是れ有るかな、子の迂なるや)と肩をすくめたというように、〕愚者は逆にそれを迂遠という。〔いくら智者が問題がまだ小さいうちに処理することを提言しても、大多数の愚者は聞き入れずに大災難となるまで放置し続ける。〕こういうわけで、社会(天下)で災難(禍)は絶え間なく起こり続けて途絶えることがないのである。

余論-05:異文化受容と異民族への同化
 本段では《春秋左氏伝・僖公22年》の「平王東遷」の記事を紹介する。これは、周室の大夫辛有が新首都洛邑(洛陽)南部の伊川を視察した際、伊川住民が異民族の装束(被髪)と宗教(祭祀)を受け入れている様子を見て、そう遠くない将来、伊川は異民族に同化するだろうと予測し、実際その通りなった……という逸話である。

 息軒がこの逸話を紹介した意図は、もちろん幕末当時(慶應3年頃)の情勢に重ねることにある。上段において、当時の日本人のなかにはクリスマス・イブを祝い、洋装して町を闊歩する者が衆目を集めていたことが述べられている。これは夷狄(西洋)の宗教(祭祀)と装束(夷服)を受容しているわけで、まさに紀元前8世紀に「被髮にして野に祭る」伊川の住民の姿と重なる。
 ならば、日本も「百年に及ばずして、此れ其れ戎とならんか」と息軒は問う。(慶應3年(1867)の100年後といえば、1967年であるから、当たっている)

 現代日本人は、すでに欧米の価値観(自由・民主・人権)を完全に受容しており、それで特に不都合も覚えないから、息軒が何をそんなに危惧しているのか、さっぱり共感できない。少し時代背景を考える必要がある。
 当時は、まだ人種問題が認識されていなかった。例えば、米国大統領リンカーンが「奴隷解放令」に署名したのは文久3年(1863)、南北戦争終結は慶応1年(1865)である。日本が1919年のパリ講和会議の国際連盟委員会で提案した「人種的差別撤廃案」は、賛成多数だったにも関わらず、議長を務めていた米国大統領ウッドロウ・ウィルソンにより否決された。
 息軒の時代の米国とは、そんな国である。

 現代中国では、大学によってはクリスマスパーティーを禁止しているところがある。これは共産主義の立場から宗教行為を禁止しているわけではなくて、民族主義的な立場から”伝統文化の堅持”するべく、”西洋文化の拡張阻止”を謳ったものである。
 もし、このクリスマス(宗教祭祀)禁止令の根底に「儒家」的思惟が横たわっているとしたら、現代中国において次に制限されるべきは、服装(西服)だろう。近い将来、中国の大学は往年の中山服や人民服を学生服として採用し、学生に着用を義務付けるようになると思う。

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