安井息軒《周禮補疏》
解題
《周禮補疏》は、安井息軒(1799-1877)が著した《周礼注》の注釈書である。未刊行ながら、慶応大学図書館斯道文庫安井文庫には三種の写本が所蔵されている。即ち以下の三種である。
書誌情報は、高橋智〈安井家の蔵書について/安井文庫研究之二〉に詳しい。要略すれば、①は定稿に近く、〈冬官考工記〉には道具類の図まで掲載されている。②と③は、表紙にそれぞれ「別本甲」と「別本乙」とある。②は〈天官冢宰〉のみ、③は〈周禮注疏序〉から〈地官司徒・舞師〉までである。
なお③の「竹添井井手校」とは、《左氏会箋》で知られる竹添進次郎(光鴻・井井:1842-1917)が朱筆で書き込んだ校正である。ただし竹添進次郎の署名があるわけではなく、高橋智(2001)が筆跡より鑑定した結論である。
◯
息軒が《周禮補疏》の底本に用いているのは、その文字の異同より推察するに、毛晋が崇禎年間に汲古閣から刊行した十三経注疏、所謂る「毛本」、あるいは「崇禎本」、「汲古閣本」と呼ばれる版本と考えられる。
判断の根據は、《周禮補疏》には毛本固有の文字使いが数多く認められるからである。例えば、《周禮補疏》の〈周禮注疏序〉に「以餘官紀之」とあるが、諸本はこれを「以餘官約之」に作っており、加藤虎之亮《周禮經注疏音義校勘記》(p.16上段左)は「毛本「約」誤「紀」」といっている。
また高橋智〈安井家の蔵書〉の「目録編」を確認すれば、安井息軒旧蔵書の中に「十三経注疏三百三十四巻。明毛晋校 清嘉慶三年金閶書業堂刊 一百二十冊 覆刻汲古閣刊本」とあり、息軒が毛本を所有していたことが確認できる。
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《周禮補疏》の構成は、①《周礼補疏十二巻》に基づけば、以下の通り。
一見して明らかなように、構成と小題の体裁に統一性を欠いており、未完成という印象を受ける。あるいは刊行にこぎつけていれば、こうした瑕疵は除去されたのかもしれないが。
また10巻までしかないにも関わらず、斯道文庫が《周礼補疏十二巻》と命名するのは、9巻1頁1行目に「《周禮補疏》巻第十一」とあり、10巻1頁1行目に「《周禮補疏》巻第十二」と記すことによる。しかし1~4巻までは、やはり1頁1行目に「《周禮補疏》巻第一」などと明記があるものの、5~8巻にはなかったことから、9巻を抄写する者が巻数を数え間違えたものと思われる。(待考)
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《周禮補疏》は《周礼注》(経+鄭玄注)の全文を収録しているわけではなく、議論すべき箇所のみを抄録する。その後で、”~云”という形で先人の説を引用し、次いで「按~」という形で自説を述べる。引用と按語は常に両方あるわけではなく、どちらか一方だけしかないパターンも珍しくない。
なお《周禮補疏》が多く引用するのは、《周官義疏》、阮元《校勘記》、段玉裁《周禮漢讀考》、王夫之《経義述聞》、惠士奇《禮說》、江永《周礼疑義挙要》などである。《周官義疏》以外は、《皇清經解》に収録されており、息軒はこれを使ったのだろう。息軒旧蔵書に「皇清經解一千四百巻 清阮元輯 清道光九年刊初印 三六〇冊」とある。《周官義疏》は、乾隆帝が編纂させた《欽定周官義疏》と思しきが、安井家旧蔵書に見えず、息軒が何に依りたるかを知らず、あるいはこれ某書より孫引きしたるか。
その按語を読むに、総じて鄭玄注への崇敬の念が強い。
◯
息軒は《周禮補疏》のために序文を書いていない。また経典注釈書という性格上、本書の記述から息軒の「《周礼》思想」を抽出するのも、非常に困難である。ただし、息軒は随筆《睡餘漫筆》や政策論《救急或問》の中で、自身の《周礼》に対する考え方を明示しており、参考になる。その一例を引用すれば、
まず《周礼》偽作問題について、《周礼》は周公旦の著作でないことを認めつつも、聖人の著作であることは疑いなく、経書として扱うに相応しいと主張する。また後漢の鄭玄の解釈を最善とし、魏晋南北朝時代の諸説を集めた《義疏》は俗書に過ぎないので参考程度に留めよという。
息軒は、《周礼》を経書、すなわち、普遍的正しさを備えており、現代人が指針として依るにたる文献と措定したうえで、現代(=幕末)での活用を提言する。
つまり息軒は《周礼》を参考にして幕藩体制下における官僚機構の不備を補完できると考えており、これこそが《周礼》研究の目的なのである。実際、息軒は《救急或問》や《時務一隅》で、《周礼》を引き合いに出す形で、様々な制度改革案を提言している。
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実のところ、息軒と同様の動機から《周礼》研究に取り組んでいた幕末の儒者は、他にもいる。(参照:羽賀祥二〈明治維新と「周礼」〉)。
ここで少し、その思想史的意義について考えてみたい。
周知のように、明治新政府は当初から西洋型近代国家建設を打ち出していたわけではない。明治新政府が最初に発布した法令は明律と清律を参照したものであったし、明治新政府が最初に施行した太政官制も、本朝律令時代の官僚機構を再構築したものではあるが、その大本を辿れば、息軒が述べているように《周礼》に行き着く。とすれば、幕末維新期の”天皇を中心とした新国家”とは、欧米近代国家ではなく、《周礼》的なイメージによって構想されていたとは言えまいか。
つまり、幕藩体制から西洋型近代国家体制へダイレクトに転換したのではなく、両者のあいだに《周礼》的国家体制、これはつまり中華王朝の官僚国家体制ということだが、これが挟まっているということだ。そして西洋の官僚機構が、イエズス会士によって欧州にもたらされた中華王朝の官僚機構に関する知見の上に成立していることを思い返せば、日本が明治6年(1873)岩倉使節団帰国とともに西洋近代国家をモデル化した際に、それまでの《周礼》研究の蓄積がその理解を促進したという側面もあったのではないか。
言い換えれば、明治初期の太政官制の施行は脇道への迷走などではなく、近代国家建設のために不可欠な工程であったと評価するべきではないか。とすれば(仮定に仮定を重ねるが)、息軒の《周礼補疏》も幕末に咲いた歴史の徒花などではなく、日本の近代化に貢献した重要な研究の一つと位置づけることも、また許されるのではないか。
凡例
一、本文は、安井息軒《周禮補疏》の電子翻刻と点校を目的とする。
一、底本は、慶応大学図書館斯道文庫安井文庫蔵「安井息軒《周礼補疏十二巻》近代写十冊」(整理番号09B63)を用いる。底本の閲覧に際しては、宮崎市安井息軒記念館所蔵のマイクロフィルムを利用した。
一、字体は正字体に統一する。ただし、フォントの都合で一部は常用漢字体を以て代える。
一、底本は白文である。句読点は、点校者が独自に加える。改行は底本に準ずる。
一、《周礼》の職名は《 》で示す。経文の首は〔經〕、注文の首は〔注〕と記す。点校者の注釈は【 】で示す。
一、底本には頁番号が付されていない。点校者が独自に付す。