安井息軒〈星占說〉02
02a
原文-02a:古人謂之長星。蓋彗星一體也。據占、彗除舊布新之象、其兆爲亂。然海内熙煕、兆民方仰惟新之化、尚何叛亂之足慮哉。然則天變果不足懼耶。
訓読-02a:古人は之を長星と謂ふ。蓋し彗星の一體ならん。占に據れば、彗は舊を除き新を布くの象にして、其の兆は亂たり。然れども海内熙煕として、兆民方に惟新の化を仰げば、尚ほ何ぞ叛亂を之れ慮るに足らんや。
然らば則ち天變は果して懼るるに足らざるか。
意訳-02a:古の人はこれを「長星」と言った。思うに彗星の一種であろう。〔天文〕占によれば、〔彗星の〕「彗」とは〔掃除道具の箒(ほうき)であり〕旧制度を払い除けて新制度を発布するという象徴で、その兆候〔が示すの〕は叛乱(亂)である。 しかしながら国内情勢は明るく(熙煕)、人民が〔政府による社会を〕改革革新するための指導(化)を仰いでいれば、なぜ叛乱を心配するに及ぼうか。
それでは天変地異は果たして恐れるに足りないのか。〔いいや、そうとも言い切れない。〕
余論-02a:彗星を凶兆とするに天文占に対する息軒の考え
本段には「惟新」(=維新)という単語が登場し、「兆民方に惟新の化を仰げば」云々とあるが、この「惟新」は明治維新を指すものではないだろう。
聞きかじったところによれば、「明治維新」という、「維新」という単語と「明治」という時代が結びついてできた四字句が一般化するのは、「昭和維新」を掲げた「二・二六事件」(1936)の頃だという。(※未確認)。明治時代にも幕政から王政への移行を「御一新」と称する向きはあったが、明治新政府が掲げたキャッチコピーはあくまで「王政復古」であった。
「維新」という熟語自体は儒家経典の《詩経・大雅・文王》に見える。ただ、この語が江戸時代の日本で流行するのは、藤田東湖(1806-1855)によるところが大きく、「一新」は文政11年(1828)、「維新」は天保元年(1830)ごろが初出だという。(※未確認)東湖は主君水戸斉昭による藩政改革を「維新」と称揚したものと思われるが、本段の「惟新」は恐らくは「天保の改革」(天保12~14)を指すのかも知れない。
○
また本段の「海内熙煕として……尚ほ何ぞ叛亂を之れ慮るに足らんや」という現状認識は、「黒船来航」(1853)以降に執筆された《救急或問》や《時務一隅》、《蝦夷論》に漂う切迫感とは全く異質であり、本篇の成立が太平の世であったことをうかがわせる。
02b
原文-02b:昔者孔子之修《春秋》也、天災必謹書之、地眚必謹書之。雖常度如日食、亦必謹書之。而雊雉桑穀之祥、《商書》既詳述之。蓋聖人施教於視聽之所及、其獨知無徴者、置焉而不論。
訓読-02b:昔者(むかし)孔子の《春秋》を修むるや、天災は必ず謹しんで之を書し、地眚は必ず謹しんで之を書す。常度なること日食の如きと雖も、亦た必ず謹しんで之を書す。
而して雊雉・桑穀の祥(きざし)は、《商書》既に詳しく之を述ぶ。
意訳-02b:その昔、孔子が《春秋》を編集する際には、天災は必ず丁寧に書き、地異(地眚)は必ず丁寧に記した。周期性(常度)があることは、日食のようなものだとしても、また必ず丁寧に書き記した。
そして「雊雉」〔という、殷朝の高宗が宗廟で祭祀を執り行なおうとした時、野鳥であるキジが廟内に現れ鼎の取っ手に止まって鳴いたという凶兆〕や「桑穀」〔という、殷王太戊が即位した時、桑と楮(コウゾ)が宮殿(朝)内に生え、一夜にして大木となった〕といった兆候(祥)の事〔と、これらの怪奇現象に対して、高宗も太戊も祈祷などは行わず、ただ日頃の態度や言動を見直すに留め、それにより結果的に王朝に繁栄がもたらされたという結末〕は、すでに《尚書・商書》〔の〈高宗肜日〉と〈咸有一德〉の《咸乂》序〕に詳しく述べられている。
余論-02b:古代聖人の異常現象に対する態度
直前の「然らば則ち天變は果して懼るるに足らざるか」に対する回答。
息軒の考えでは、天変地異は闇雲に恐れる必要はなく、祈祷も不要だがーー孔子が重い病に倒れた時、弟子の子路が見かねて祈祷を提案するが、孔子は「丘の祷るや久し」と却下した(述而)ーー、ただ、そうした異変を契機と捉えて、自身の日頃の態度や言動を見つめ直すべきなのである。
だからこそ、孔子も《春秋》に日蝕や地震のことを一々記録したのだと、息軒はいう。
また、古代の聖王・賢臣の言行を記録した《尚書》には、「雊雉」と「桑穀」といった異常現象について記されている。息軒にとっては、いずれも基礎知識レベルの話なので省略したのだろうが、この二つの事件の結末を簡単に紹介しておくと、宗廟や宮殿内で生じた怪奇現象に対して、殷王たちは特にまじないや祭祀を執り行ったりせず、ただ身を修める(日頃の態度を見直し、改める)だけで済ませ、君主が気を引き締め直したことで、結果的に殷朝は繁栄する。
似たような逸話は、出土文献《魯邦大旱》などにも見えるが、儒者の合理的精神を示すものとして、よく引き合いに出される。
02c
原文-02c:蓋聖人施教於視聽之所及、其獨知無徴者、置焉而不論。况天之高遠、雖聖人蓋亦有不得而知者。故敬之如君、畏之如師、以寓至教於不知不言之中。
訓読-02c:蓋し聖人は教えを視聽の及ぶ所に施し、其の獨知にして徴無き者は、置きて論ぜず。况んや天の高遠なるや、聖人と雖も蓋し亦た得て知らざる者有らん。
故に之を敬ふこと君の如く、之を畏るること師の如く、以て至教を不知不言の中に寓(やど)す。
意訳-02c:思うに、聖人は人民教化を〔一般人の〕視力と聴力が及ぶ範囲で施し、その〔聖人である〕自分にしか理解できなくて(獨知)、〔誰の目にも明らかな〕証拠(徴)がない事象は、横に置いて説明しない。まして〔天地自然の主宰者としての〕「上天」(天)は高遠であり、〔その目的や意図に関しては、《史記・孔子世家》が伝えるように、あの聖人孔子でさえ愛弟子の顔回が死んだ時に「天は予を喪せり」と呪い、麒麟の雄の死骸を見て「河は図を出ださず、雒は書を出ださず、吾、已んぬるかな」、「吾が道は窮せり」と嘆いたように、〕聖人といえども恐らく〔完全には〕理解できないところがあるのだろう。
だから〔《論語・公冶長》で、子貢が「夫子の性と天道を言ふは、得て聞くべからざるなり」と証言しているように、聖人は〕これ〔すなわち主宰者たる「上天」について人々に説明しようとはせず、ただヒトとしてどのような態度で「上天」に向き合うべきかだけを、実際にやってみせることで人々に教えようとした。それを一言で言えば「畏敬」であるが、聖人が〕これ〔、すなわち「上天」〕を敬う態度は〔臣下が〕主君に対するもののようであり、これ〔、すなわち「上天」〕」に対して畏まるる態度は〔弟子が〕師匠に対するもののようであり、こうして〔日頃から自分より上位の存在を意識することで、傲慢にならず、謙虚に自らを律して修行に励むという〕至高の教義(至教)を〔言葉ではなく、体験を通じて気づかぬ内に獲得される〕“経験知”(不言不知)の中に込めたのである。
余論-02c:
息軒が、西洋天文学の地動説と経書の天動説の矛盾を回避するために唱えている、”聖人は一般人にも分かりやすいように、一般人の感覚にもとづいて説明するよう心がけている”を繰り返している。
ここでは、孔子が「天道」について弟子に語らなかった理由を推察して、完璧に分かったという確信が持てなかったので、説明するのは止めておき、とりあえず、どのように接すればいいかだけを実演してみせたのだと、いう。
02d
原文-02d:下至戰國、猶有以天不降災異、恐其棄己者。其慮遠矣哉。
訓読-02d:下りて戰國に至り、猶ほ天の災異を降さざるを以て、其の己を棄つるを恐るる者有り。
其の慮遠からんや。
意訳-02d:時代が下って戦国時代(前475-前221)に至ると、やはり〔主宰者である〕上天(天)が〔ヒトの道義的過ちに対して何ら〕災異を降さないことを理由に、〔逆に、たとえ仁義を貫いても「上天」より福禄長寿が与えられることはなく、かの伯夷・叔斉が首陽山に餓死したように、非業の最期を遂げるのが落ちだろうと考え、仁義のためでも〕自分が犠牲になること(棄己)を恐れる者が現れた。
〔たとえば、《孟子》には「楊子は我が爲に取り、一毛を拔きて天下を利すとも、爲さざるなり」といった考えが「天下に盈つ」とあるが、〕その考え(慮)は〔本質から〕かけ離れていることだ。
補足:「棄己」について。(2021/9/12)
当初、報告者は「其棄己」の「其」が「天」を指すと考え、「その「上天」が自分たちヒトを見捨てる」と解釈し、下のような意訳(ボツ訳)を公開していた。その後、「「棄己」は滅私(奉公)を意味する」とご教示いただき、上のような翻訳(改訳)に改めた。
その結果、続く「其慮遠矣哉」の解釈を、元訳では肯定的評価であったのを、否定的評価に改めることにした(が、しっくりこない)。待考。
ボツ訳:時代が下って戦国時代(前475-前221)に至っても、やはり〔、もしも主宰者である〕上天(天)が〔ヒトの過ちに対して何の〕災異を降さないとしたら、〔それは「上天」がヒトに全く関心がなく、〕自分たちヒトを見捨てているということになると恐れる者がいたが、その思慮は〔実に〕深遠ではないか。
余論-02e:戦国時代の天人観念
「以天不降災異、恐其棄己者」は先進諸子の一人と思うが、いったい誰を指すのか。識者の教示を待つ。
とりあえず「棄己」(=自己犠牲)を恐れる者ということで、楊朱と想定してみた。
02e
原文-02e:至漢儒、誤會《洪範》、始以災祥取必於天、某爲其應〔、〕某爲某孽、毫分縷析、如援律斷罪、甚焉至宰相有以天變自教者。蓋論天之義密、而敬天之意荒、其失在人天無別矣。
訓読-02e:漢儒に至りては、《洪範》を誤會し、始めて災祥を以て必ず天に取り、某は其の應たり、某は某の孽たりと、毫分縷析すること、律を援け罪を斷ずるが如く、甚だしきは宰相の天變を以て自ら教ふる者有るに至る。
蓋し天を論ずるの義密にして、天を敬ふの意荒、其の失は人・天の別無きに在り。
意訳-02e:漢代の儒者(漢儒)に至っては、《尚書・洪範》〔に記載された「洪範九疇」〕を誤解し、儒学史では初めて天災(災)や瑞祥(祥)〔の原因〕を必ず「上天」に求め、何々という現象は何々という〔正当な行為に対する〕プラスの反応(應)だとか、何々という現象は何々という〔不当な行為に対する〕マイナスの現象〔孽〕だと、詳細で精密な分析(毫分縷析)を行い、〔そうして整理された災異思想は、実社会のなかで〕あたかも法律のように運用され(援律斷罪)、甚だしきに至っては宰相でありながら天変地異(天變)にかこつけて自ら〔若き皇帝に諫言を奏上して〕教導する者が現れた。
思うに〔漢代の儒者は〕〔主宰者としての〕「上天」を論ずる理論(義)は精密だが、「上天」を敬おうという意識が乏しく(荒)、その〔最大の〕失点はヒト〔の領域〕と「天」〔の領域〕を分別していない点にある。
余論-02e:漢代の天人観念
「宰相有以天變自教者」が誰か未詳。董仲舒は博士官であって宰相ではないし、讖緯説を利用して帝位を簒奪した王莽であろうか。
あるいは災異説が隆盛した漢代のことであるし、”宰相たち”と一般化してもよいのかも知れない。待考。
「自教」の意味も判然としない。現代中国語では「自学」(Self Learning)の意味で使うが、ここでは”自分で誰かに教えた”という意味かと思われる。異常事態にかこつけて皇帝に諫言したという意味か。だが、災害にかこつけて主君を説教するのは、漢代に限らず、あらゆる時代の宰相・臣下が行うことであり、「甚だしきは」にそぐわない。待考。
○
漢代儒者の天人観念を批判して、「其の失は人・天の別無きに在り」、つまりヒトの領域と「天」の領域を区分していないことが、漢代儒学の欠点だという。
息軒は古学者であり、荻生徂徠の天人分離説を”批判的”に継承している。”批判的”というのは、徂徠ほどには振り切っていないからである。それは思想的退歩というよりも、徂徠学の世俗化と位置づけるべきだろう。
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