安井息軒〈文會社約〉00
解題
安井息軒は、父の逝去後、飫肥藩藩職を辞し、家族を伴い江戸へ移住した。不惑(40歳)のことである。移住後まもなくして、息軒は塩谷宕陰・芳野金陵・木下犀潭・羽倉簡堂・藤森弘庵ら五人とともに「文会」なる一種の文芸サロンを立ち上げ、毎月一度、詩文を持ち寄って互いに批評しあうようになる。
息軒の弟子であり、後に西南戦争の熊本城防衛戦で活躍する谷干城〈修行日記残缺〉(島内登志衛編《谷干城遺稿》上・p.369)には、安政4年12月15日(1858年1月28日)の記事として、「同十五日睛六ツ頃起る。今日先生方の文會。當先生御宿晝頃より段々來る。松岡氏も來る。諸先生大醉にて詩吟抔出る暮合皆歸る」とあり、その親睦ぶりを伝える。
「文会」立ち上げ時の会員のうち、安井息軒・塩谷宕陰・芳野金陵・木下犀潭の四人には、松崎慊堂門下という共通点がある。彼ら4人と羽倉簡堂・藤森弘庵との関わりは未詳だが、羽倉は古賀精里、藤森は古賀侗庵に師事しており、あるいは息軒たちとは昌平黌の同窓であったのかもしれない。その後、「文会」に参加する会員として、藤田東湖・林靏梁・重野安繹(成斎)・川田剛(甕江)がいる。
会員の詳細は、古賀勝次郎〈安井息軒をめぐる人々/息軒学の形成・継承の一断面〉の「(三)息軒の交友/文会の面々」(p.7-12)を参照されたし。
◯
本篇で取り上げるのは、「文会」立ち上げに際して息軒が定めたとされる「社約」、すなわち「サークルの規約」である。本「社約」を読むに、もともと「文会」は文芸活動を主目的としたサークルであって、政治結社でも学術団体でもなかったようだ。例えば、「交わりに新故無く、唯だ其れ『雅』のみ」とあり、風流・風雅に最高価値を置くと明記されている。
そのためか、会合に於いては詩文の批評のみならず、気分転換として様々な芸事を楽しむことが奨励されており、「書畫は至たり、琴碁は高たり。或ひは笛し、或ひは笙し、或ひは吟じ、或ひは嘯し、或ひは僊僊として舞ひ、或ひは鳥鳥として歌ふ」云々とある。なお、書・畫・琴・碁は「四芸」と称され、古来中国では士大夫(知識人)必須の芸事とされている。中でも、息軒は特に碁を好んだと伝わっている。
また禁止事項として、「獨り當世文人の短長を論ずるのみを許さず。其の阿黨の端を啓くを恐るればなり」といい、同時代の文士の長所・短所を論評することを禁じている。それによって、世琉に迎合するようになることを恐れるからだという。ここにも、会の性格を「純文学」的なものに留めんとする意志が見て取れる。
我々にとって息軒とは、幕末維新期に数々の藩政改革案を提言した政治思想家であり、明治新政府に数多の人材を供出した教育者であるが、この「社約」からは、おおよそ、現実の政治にコミットしようとする熱意や、個人として道徳実現を目指そうという使命感は感じ取れない。むしろ「自ずと俗流嗔闐の地より、時に一たび之に游ぶも、亦た藝林の韵事に非ざらんや」といい、一時的に俗世を離れて芸林の世界に逃避しようという、「高踏」的性格が前面に押し出されている。
息軒の飫肥藩時代の処女作《志濃武草》や、江戸に移住してまもなく塩谷宕陰・芳野金陵の批正を経て刊行した《読書余適》が紀行文であったことを考えれば、息軒はもともと「文人」として世に出ることを志していたのではないか。
「社約」が醸し出す「高踏」的性格は、徂徠学派の文学論に通ずるものがある。荻生徂徠の学問は様々な分野に広がっていたが、その全てを継承できた弟子はおらず、徂徠の死後、徂徠学派は分野ごとにいくつかに分派する。その一つに、服部南郭・安藤東野・平野金華たちで形成された「詩文派」がある。彼らの特色は、政治や道徳に関心を示さず、ただ詩文の創作に没頭するという点にあり、「蘐園風」というその文学スタイルは、江戸中期の漢詩文の主流を占めるに至る。
確かに徂徠学派(蘐園学派)は、「寛政異学の禁」によって昌平黌や各地の藩校から排除されていき、振るわなくなっていくが、完全に途絶したわけではなく、息軒の父滄州は古屋昔陽に師事して徂徠学を修め、息軒本人もまた滄州の助言を受けて十代より徂徠学を学んでいる。息軒の「社約」が文芸創作から政治や道徳を切り離そうとする姿勢は、徂徠学詩文派の「蘐園風」を継承したものと言えなくもない。
しかしながら、息軒はその後、「蘐園風」の「高踏」主義との決別を表明することになる。息軒〈文論〉(《息軒遺稿》1卷16頁裏-18頁表)において、息軒は文章とは一定の目的のために書かれるべきであり、読者を道徳実践や社会正義の実現に駆り立てるような内容を伴わなければ無意味だと主張する。
〈文論〉の著述年代が明らかでないため、どうしても推測の域を出ないが、恐らく「黒船来航」により引き起こされた社会変動を前に、儒者として、もはや現実世界からの逃避して芸林に遊ぶことは許されないと覚悟を決め、「アンガージュマン」(engagement:同時代の人々のために、同時代に責任を負いながら、モノを書く)を決意したのではないか。
それにともない「文会」の性格に変化が生じたかは未詳であるが、「黒船来航」以降、幕府の海岸防禦御用掛である藤田東湖が「文会」に参加するようになるが、東湖の参加によって「文会」が政治色を強めていった可能性はある。例えば、息軒が藤田東湖の仲介で水戸斉昭に海防論を講じたことは知られているが、「文会」立ち上げメンバーである藤森弘庵もまた水戸斉昭に海防論を説いて《芻言》を奏上し、後に「安政の大獄」に連座している(文久2年に赦免)。
また、藤田東湖がロシア使節プチャーチンの来日に際して、「攘夷會」と称して、安井息軒・塩谷宕陰・芳野金陵を自宅に招いて相談していたことは、藤田東湖の書簡〈甲寅十月十九日、翁、安井息軒ニ與フル書簡アリ、左ニ録ス〉(川崎三郎《西郷南洲翁逸話》磊落堂・1894年、90頁表~91頁表)により知られるのだが、同書簡に「爛醉、甚失敬仕候。禪林之幽寂、海樓之愉快近來佳興、深謝先生之賜候。(略)且ツ禪林ニ僧侶アリ、海樓ニ婦女アリ、是亦談話ヲ妨候間、何卒今一日御會申度存候」云々とあり、招待した理由を、息軒が幹事役を務めた18日の会合では僧侶や婦女が居合わせたために話せなかったことがあるからだと説明している。この18日の会合が「文会」であるとすれば、藤田東湖を囲んで外交問題を議論することを「文会」は禁じていなかったということになる。
「社約」では「獨り當世文人の短長を論ずるのみを許さず。其の阿黨の端を啓くを恐るればなり」といい、同時代の文士を論評することさえ、世間ずれを起こすとして禁じていた事を思えば、やはり「文会」自体の性格が「社約」を定めたころとくらべて、後には大きく変わっていったと考えるべきだろう。(了)。
凡例
一、本稿は、安井息軒〈文會社約〉の底本・釈文(原文)・書き下し文(訓読)・現代日本語訳(意訳)ならびに余論である。
一、底本は、若山甲蔵《安井息軒先生》(蔵六書房、1913年、p.76-78)を用いる。
一、タイトル〈文会社約〉は、訳者の命名である。底本はただ「社約」とのみいう。
一、「原文」の字体は、フォントの許す限り正字体で統一する。底本の俗字・異体字は、正字体に改める。
一、「訓読」(書き下し文)は、底本に付された読点に従う。
一、「意訳」(現代語訳)は、訓読(書き下し文)と対応するよう心がける。補足説明は〔 〕でくくって訳の一部として読めるようにし、かつ〔 〕部分を隠せば訓読(書き下し文)の直訳となるよう工夫する。
一、段落分けは、訳者が文脈から判断して行う。底本の段落分けは“///”で示す。
一、底本は読点(、)のみで句点(。)がないため、訳者が文脈から判断して、一部の読点を句点に改める。