安井息軒〈擬乞禁夷服疏〉

解題

 安井息軒の〈擬乞禁夷服疏〉は、 上奏文(疏)の体裁を擬(なぞら)えて書かれた意見書である。その主張を一言で言えば、「洋服禁止令の提言」である。
 本篇は、息軒の内孫安井千菊と外孫安井小太郎によって、安井息軒没後2年目に刊行された《息軒遺稿》(東京:安井千菊、1878年)に収録されている。

 安井息軒〈擬乞禁夷服疏〉は、幕府に対して「洋服禁止令」を上奏する。息軒は、日本人が欧米の生活様式を導入することで、精神的にも欧米の価値観に染まり、キリスト教に改宗し、やがて「天草の乱」のような宗教叛乱を起こすことを懸念する。
 極論のようだが、要するに「服装の乱れは心の乱れ」ということである。現代の心理学でも、例えば「制服」が着用者の心理に影響を及ぼし、行動を抑制・促進することは認められてり、全く非科学的とも言えない。

 もともと息軒は、《孟子・告子》に「子 堯の服を服し、堯の言を誦へ、堯の行を行へば、是れ堯なるのみ」(聖人の外見と言動を完コピできたら、それもう聖人じゃん?)とあることを根拠に、服装や言動を制御することで、精神を陶冶できると考えている。
 その逆もまた然りで、本篇では人民が「夷服夷言」するようになれば、基督教に「蠱惑」されやすくなり、基督教徒となれば、協議を既存の社会秩序に優先するようになり、「必ず君父に背くに至る」と主張する。

 話が飛躍するが、本篇の内容を踏まえれば、井上馨(1836-1915)が明治16年(1883)に始めた鹿鳴館を中心とした欧化政策の趣旨も理解できるだろう。
 ビゴー(Georges Ferdinand Bigot)の有名な風刺画ーー洋装した日本人男女が鏡の前に立っているが、鏡に映っているのは直立した動物の姿であるーーは、鹿鳴館で夜ごとに舞踏会に耽る日本人が、外面を西洋化するだけで、内面の近代化に無頓着であることを痛烈に批判している。
 現代日本人から見ても自己欺瞞にしか見えない井上馨の欧化政策は、しかし、言うなれば、息軒〈擬乞禁夷服疏〉を裏返しにしたものである。息軒は、日本人が日常的に洋装することで、精神面まで西欧化することを警戒した。井上馨は、日本人に日常的に洋装させることで、精神面の西欧化が可能になると期待した。両者は、西欧化に対する評価こそ真逆だが、「洋装」によってそれが引き起こされると信じる点で、実のところ、同じ「人間観」に立脚しているのである。
 それもそのはず、井上馨は「天保の老人」であり、幕末の儒学教育を通じて人格や常識を形成した。彼ら「天保の老人」を教育したのは、息軒世代の儒者である。井上馨の人間観が、幕末の儒宗安井息軒のそれと一致していても、何ら不思議はない。むしろ当然である。
 両者の発想は、日本の「習い事」でいう「形から入る」の延長線上にある。

 本篇の執筆時期は未詳だが、絞り込みの手がかりとなる記述が本編中に幾つか見える。
 まず、本篇は幕藩体制を現行体制と認識している。「元和建櫜……其の制は簡なりと雖も、其の禮も亦た具はり、……秩然として紊(みだ)れず。之を守ること三百年、彊藩豪主と雖も、敢へて少しも變更する所有らざるも、亦た幕朝一代の制に非ずや」云々ということから、著述時期は慶應3年(1867)の「大政奉還」以前であろう。これが下限である。
 また、「近くは洋夷 心を生じ、通信・互市を乞ふこと、歲に虛月無し」云々とあることから、嘉永6年(1853)の「黒船来航」からやや年数が経過していると思われる。さらに「近く聞くならく洋學の徒に、冬至の後二日を以て元日と爲し、酒を置きて友朋を招く者有り。或ひは洋夷の紀年を傘燭に著し、公然と之を道路に揭ぐ」とあり、伝聞として、日本の洋学者がクリスマスを友人と祝い、西暦を「傘燭」(未詳)に記して公共の場に掲示している云々とあるが、これは「日米修好通商条約」(1858)によって横浜に「外国人居留地」ができて、日本人が欧米文化に直接見聞きできるようになって以降に出現した状況と考えられる。
 ただ、「遂ひに夷言夷服して之を學び、短衣窄袖、穿つに骰子を以てし、長帽を戴き、大嚢を纓ふ。未だ純ら彼と同じからざるも、要は傚ひて之を爲す」「今や夷服夷言する者、道路に旁午す」とあり、日本人で洋装する者が巷で目につくようになったという状況が、果たして幕末に出現していたのか、やや疑問を覚える。あるいは、これは慶應2年(1866)の軍制改革によって編成され、シャルル・シャノワールらフランス軍事顧問団から直接指導を受けた精鋭部隊「伝習隊」に所属する幕府歩兵の軍服姿を描写しているのではないだろうか。
 また、「夷言」を学ぶ者が往来を闊歩しているという状況だが、これは慶應3年(1867)に幕府が横浜に「語学所」を設置して、英語・仏語の語学教育が始めて以降に出現した状況ではないだろうか。

 以上をまとめれば、執筆時期は慶應3年(1867)頃と推定される。


凡例

一、本稿は、安井息軒〈擬乞禁夷服疏〉の釈文(原文)・書き下し文(訓読)・現代日本語訳(意訳)ならびに余論である。
一、底本は、《息軒遺稿》(東京:安井千菊、1878年、1巻39頁表-41頁裏)を用いる。
一、「原文」の字体は、フォントの許す限り正字体で統一する。底本の俗字・異体字は、正字体に改める。
一、「訓読」(書き下し文)は、底本に付された読点と返り点とに従う。
一、「意訳」(現代語訳)は、訓読(書き下し文)と対応するよう心がける。補足説明は〔 〕でくくって訳の一部として読めるようにし、かつ〔 〕部分を隠せば訓読(書き下し文)の直訳となるよう工夫する。
一、段落分けは、底本にはないため、訳者が文脈から判断して行う。段落分けは”///”で示す。
一、底本は読点(、)のみで句点(。)がないため、訳者が文脈から判断して、一部の読点を句点に改める。

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