安井息軒〈擬乞禁夷服疏〉08
原文-08a:議者乃曰、趙主父胡服以取中山。豪傑所爲庸人固不知也。耶蘇有地獄天堂、我民或受誑誘、與佛何異。是狂妄之談也。
訓読-08a:議する者乃ち曰く、「趙主父は胡服して以て中山を取る。豪傑の爲す所は庸人固より知らざるなり。耶蘇に地獄・天堂有りて、我が民或ひは誑誘を受くるとも、佛と何をか異にせん」と。是れ狂妄の談なり。
意訳-08a:〔私の上述の意見に〕反論する者は、「〔春秋戦国時代の〕趙主父〔こと、趙国の武霊王(在位:前325‐前299)〕は〔中原で一般的だった「漢服」に代えて、北方の異民族である胡族の〕「胡服」〔つまりズボン〕を採用して、中山国を攻め取った。〔このように〕豪傑がすることは凡人(庸人)にはもとより理解できないものだ。また基督教(耶蘇)に地獄と天国(天堂)の教えがあって、我が日本の人民が〔基督教に改宗しなければ地獄に落ちると〕騙され誘い込まれたとしても、仏教と何が違うというのか」などと〔呆れたことを〕申します。
これは道理に合わない常軌を逸した意見(狂妄之談)です。
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原文-08b:趙國車戰、不便於狹隘之地。其改故服、所主在騎射。猶我取火技艦制。非浮慕其俗而服之也。
訓読-08b:趙國の車戰は、狹隘の地に便ならず。其の故服を改むるも、主とする所は騎射に在り。猶ほ我の火技艦制を取るがごとし。其の俗を浮慕して之を服するに非ざるなり。
意訳-08b:〔古代中国では、戦国時代前期(前3~4世紀)まで、三人乗りの戦闘用馬車(=チャリオット)が決戦兵器でした。黄河と長江に挟まれた中原には戦車戦に適した平野が広がっていましたが、北部に位置する〕趙国の〔国土は山地が半ばを占めており、〕戦車戦は〔平地の〕狹隘な地形には不利でした。趙主父が〔「漢服」という〕着慣れた服装(故服)を〔敢えて「胡服」(ズボン)に〕改めたのも、主要な動機は〔北方騎馬民族である「胡族」が得意とする〕騎射〔戦術の導入〕にありました。ちょうど〔現代の〕我々日本人が〔西洋の〕火器と戦艦の製造技術と運用方法を(火技艦制)を取り入れているようなものです。
〔そもそも「漢服」は、足首まである長さのガウンを重ね着した上で、腰のところを帯でゆったりと締めるだけで、下に袴の類を履きません。戦車(=チャリオット)で戦うぶんには支障がないのですが、乗馬は両腿の間に乗馬の胴体を挟まなければなりませんから、騎馬戦には不向きです。ですから、胡族の騎射戦術を導入するためには、同時に胡族のズボン(褲衣)の導入が不可欠だったのです。つまり趙国の兵士は仕方なく「胡服」を着たまでで、異民族である胡族の〕その習俗の上っ面に憧れて、その衣装を着たわけではないのです。〔我が国の西洋かぶれ共と同列に論じることは、できません。〕
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原文-08c:耶蘇與佛類、其法不過蠱惑人心。然人心蠱惑、必至於背君父。佛旣爲皇國無窮之禍。今縱不能驅除之、又增其類以滋我禍、非仁君所爲也。況洋夷以耶穌爲奪國之資。而誑誘之巧、比佛有加焉。
訓読-08c:耶蘇と佛とは類し、其の法は人心を蠱惑するに過ぎず。然れども人心蠱惑せらるれば、必ず君父に背くに至らん。佛は旣に皇國無窮の禍と爲れり。今縱(たと)ひ之を驅除する能はずとも、又た其の類を增して以て我が禍を滋(ま)すは、仁君の爲す所に非ざるなり。況んや洋夷は耶穌を以て國を奪ふの資と爲して、誑誘の巧、佛に比して加ふるもの有り。
意訳-08c:〔確かに〕基督教(耶蘇)は〔、信者に死後の世界を約束し、世俗の権力や家族を信仰の障害と説き、世間を捨てて宗教指導者に隷従するよう求め、時として異教徒への攻撃を命ずる点で〕仏教と類似しており、その教義も〔浅薄で、所詮は仏教同様、無知蒙昧な〕人民の心を乱してたぶらかす(蠱惑)に過ぎません。〔儒学を修めた者が基督教に騙されて取り込まれる恐れはありません。武士や貴族といった支配階級さえしっかりしていれば、そう大きな問題は起こらないでしょう。〕しかしながら人民の心が〔基督教に〕たぶらかされれば、必ず〔人民は基督教の指導者に扇動されて、〕君主や父母に背くようになります。〔これは、社会と家族という人間関係の根幹を毀損する行為で、秩序が乱れる原因となります。〕
仏教は〔、飛鳥時代に於いて崇仏派の蘇我馬子が排仏派の物部守屋を攻め滅ぼした「丁未の乱」(587)を誘発し、また戦国時代に於いて全国で一向一揆を頻発させるなど、〕すでに皇国にとって無限(無窮)の厄災(禍)となっています。〔現在では仏教は日本社会にすっかり根付き、全国の寺院も寺社奉行の管轄下で大人しくし、さらに檀家制度を通して人民統治に協力しています。だから〕今、たとえ仏教を〔日本社会から〕駆除することは不可能だとしても、また〔新たに基督教という〕その同類を増やして我が日本社会にとっての厄災(禍)を増やすのは、人民を大切に思う君主(仁君)のすることではありません。
まして西洋人ども(洋夷)は基督教(耶穌)を他国を侵略〔して殖民地に〕するための補助としています。そして、その人民を誘い誑かす技巧(誑誘之巧)においては、仏教を上回るものがあります。
余論-08:洋装禁止に対する反駁と再反駁
恐らく洋装の可否をめぐる議論の中で、当時の洋装受容派は、中国で最初に「胡服騎射之制」を導入して、戦争の形態を戦車戦から騎馬戦へと変えた趙国の武霊王を根據とするのが、常であったのだろう。
これに対して息軒は、武霊王が胡服(主にズボン)を導入したのは、漢服には袴の類がないため騎乗に不便であったからで、西洋に憧れて洋装をしている日本人と同列に論じることはできないとする。
戦闘用馬車(チャリオット)が中国で使用された最も古い記録は、前11世紀、殷周革命の「牧野の戦い」とされる(《尚書・牧誓序》武王戎車三百兩,虎賁三百人,與受戰于牧野,作《牧誓》)。その後、前4世紀に趙国の武霊王が騎射戦術を本格導入するまで、中原の決戦兵器は戦車であった。
古代中国の戦車は3人乗り4頭立ての戦闘用馬車であった。3人は、御者・車右(戈)・指揮者(射手)で構成される。戦車戦では、互いに正面から突撃し、すれ違いざまに車右が手にした「戈」(長柄武器)で相手車右を攻撃する。これを繰り返す。
ただ戦車はコストが高い上、地形の制限を受けやすい。ローマ帝国のチャリオットが廃れたように、中国でも戦車は廃れることになる。
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本段における基督教と仏教に対する認識は、《辯妄》(明治6年)のそれと大差ない。当時、恐らくは宣教師などから”基督教の教義は仏教の教義と同類であり、基督教を解禁したところで大きな問題は生じない”といった反駁が寄せられていたのだろう。これに対して息軒は、仏教が過去に戦災ーー「丁未の乱」と一向一揆ーーの元凶となったことを指摘し、基督教が仏教と同類であるならなおのこと、敢えて解禁する理由もないと述べる。
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