安井息軒《睡余漫筆・西洋に地動の說あり》05

原文-05a:衆人皆日月星の日夜に西に行くを見る。故に「天は左旋」と云ふ。地の靜にして動かざるを見る。故に「地靜」と云ふ。
 日食は明かに月の日を掩ふことを知れども、孔子の《春秋》を脩むる〔や〕、「日有食之」(日の之を食する有り)と書きて、「月掩日」(月の日を掩ふ)とは云はず。日の缺くるは衆人の見る所、月の日を掩ふは、衆人の見ざる所なればなり

意訳-05a:人々(衆人)は、みな〔頭上を見上げて〕太陽・月・星が昼夜に西へと運行するのを見る。だから〔大昔の聖人は〕「天空は〔北極星を中心に〕左回転する」(天は左旋)という。〔また人々は、足元を見下ろして〕大地が静止して動かないのを見る。だから〔大昔の聖人は〕「地は静止している」(地靜)という。

 〔聖人ともなれば、当然のごとく、〕日食は明らかに月が太陽を覆う〔ことで起きる〕ことを分かっていたけれども、孔子は《春秋》を編纂するにあたって、「日有食之」(=太陽が食べられた様に欠けた)と書いて、「月掩日」(月が太陽を覆った)とは書いていない。太陽が欠けるのは人々(衆人)が見〔てすぐ分か〕ることだが、月が太陽を覆うのは、人々(衆人)が見〔てもすぐには分から〕ないことだからである。


原文-05b:“日食は月の日を掩ふことを古人知りたり”と云へるは、《左傳》に日食の事を論じて、“「二分は同道なり、二至は相過なり」、故に「害を爲さず」”と云へり。
 「二分」は春分・秋分なり。日月皆黃道を行くゆへ、「同道」と云ふ。「二至」は冬至・夏至なり。日南北の極を行きて、月と相ひ過ぐる所、龍頭・龍尾に近し。
 故に月の日を掩ふこと、他月に比すれば「常」と云ふべし。故に「害を爲さず」と云ふなり。

意訳-05b:“日蝕は、月が太陽を覆う〔ことで起きるという〕ことを昔の人は分かっていた”と言えるのは、《春秋左氏伝・昭公二十一年伝》に日蝕の事を説明して、“「二分は同道なり、二至は相過なり」、故に「害を爲さず」”と言っている〔からだ〕。

 「二分」とは春分と秋分のことである。〔この日は〕太陽と月がどちらも黃道の上を運行するので、「同道」という。「二至」とは冬至と夏至のことである。太陽が〔冬至には天球上の〕最南端〔を運行し、夏至には天球上の〕最北端を運行し、月とすれ違う場所は〔月の天球上の通り道である白道が黄道と交差する「月の交点」である〕昇交点(龍頭)と降交点(龍尾)の近くである。

 だから〔春分・秋分・冬至・夏至に〕月が太陽を覆うことは、他の月に比べれば「通常の事態」(常)と言うことができる。だから「〔この月に起こる日蝕は〕災害を引き起こさない」と言うのである。


原文-05c:又た日食に定期あることも、《左傳》に引ける《胤誓》の文に見ゆ。

意訳-05c:また日蝕に周期性があることも〔、昔の人にはちゃんと分かっていたという証拠も〕、《春秋左氏伝・昭公十七年》に引用されている《尚書・胤征》の〔「太陽と月(辰)は房宿(=蠍座)の位置にうまく収まらなかった。〔こうして日蝕が起こったので、〕瞽史〔という宮廷楽師〕は鼓を演奏し、嗇夫〔という身分の低い地方の徴税官〕は駆け回り、庶人〔という人民のから抜擢されて官吏を補佐する下役〕は走り回〔って、厄払いに努め〕た」(辰は房に集がず。瞽は鼓を奏し、嗇夫は馳せ、庶人は走る)〕という記事に見えている。【※】

補注:
 《左伝》によれば、昭公17年6月に魯国で日蝕が起こった際、魯国の祝司(神職)が供物を捧げる許可を求め、叔孫昭子(叔孫婼)がそれを「礼に適っている」として支持するも、季平子が日蝕は周期的に起こるものだとして、「正月の日蝕以外は祭祀を行う必要はない」と反対し、魯国の神祇官(大史)が《尚書・胤征》の日蝕記事を引用して、4月(孟夏)に日蝕が起こった時にも祭祀を行っていると述べて、季平子に再反論するが、季平子は聞き入れなかった。
 これら一連のやり取りは、登場人物たちが”日蝕のなかには定期的に起こるものがあり、その場合はお祓いは不要だ”という認識を共有しているというの前提条件があって、はじめて成立する。(待考)

 ちなみに季平子が聞き入れなかったことから、叔孫昭子は”季平子の態度は君主を蔑ろにするものであり、彼はやがて謀反を起こすだろう”と予言する。季平子は、長年にわたって魯国政治を壟断してきた三大門閥「三桓氏」の一つ季孫氏の家長である。昭公25年、魯君昭公は季平子を排除しようと討伐軍を差し向けるも、三桓氏の連合軍に敗北、逆に斉国へ亡命することなる。


★《春秋左氏伝・昭公十七年》
 夏六月甲戌朔、日有食之。祝史請所用。昭子曰、「日有食之、天子不舉、伐鼓於社、諸侯用幣於社、伐鼓於朝。禮也」。平子禦之曰、「止也。唯正月朔、慝未作、日有食之。於是乎有伐鼓用幣、禮也。其餘則否」。大史曰、「在此月也、日過分而未至、三辰有災。於是乎百官降物、君不舉辟、移時樂奏鼓、祝用幣、史用辭、故《夏書》曰「辰不集于房、瞽奏鼓、嗇夫馳、庶人走」。此月朔之謂也、當夏四月、是謂孟夏」。平子弗從。昭子退曰、「夫子將有異志。不君君矣」。


原文-05d:其の義は《中庸》に引ける孔子の言に、「隠を索め怪を行ふ、後世述べること有らん」と云へる是れなり。獨知の明を奮ふて人に伐る如きは、皆な小人之事と知るべし。

意訳-05d:〔孔子が日蝕について「月が太陽を覆った」と書かなかった〕その意味は、《礼記・中庸》に引用している孔子の言葉に「〔余人には知り得ない〕高遠な秘事(隠)を考究したり、〔万人には思いもつかない〕奇異な振る舞い(怪)をしたりする。〔それで世間の耳目を集めれば、あるいは〕後世に〔その名を〕語り伝えられることもあるだろう。〔だが、私はそんな方法はとらない〕」(隠を索め怪を行ふ。後世述べること有らん。〔吾は之を為さざるなり〕)と言っているのは、このことである。

 自分だけが知っているような知識(獨知の明)を振りかざして他人にマウントをとる(人に伐る)ような行為は、みな「小人物の行為」(小人之事)だと心得るべきである。


余論-05:聖人のための弁明
 息軒〈地動説〉で論じたことを、さらに詳しく噛み砕いて説明している。

 儒者には、何かを主張する際に「経書」にかこつけるというルールがある。確かに陸象山のように「六経、我が心に注するなり」と喝破する儒者も現れたが、それとて主客を転倒させただけで、畢竟「経書」の正しさそのものを疑ってはいない。儒家思想史とは、つまるところ、「経書」を時代に合わせて再解釈・新解釈する営みの連続だと言える。
 19世紀の儒者が迫られていたのは、西洋科学文明と経書のすり合わせであり、息軒が本段で試みているのも、経書の記述と地動説の合理化である。

 近代日本は、「文明の西漸」を使命とする米国の向こうを張って、西漸した西洋科学と東洋倫理の融合を「マニフェスト・デスティニー」(Manifest Destiny)とした。息軒の取り組みは、その先駆をなすものといえよう。

紀元前にメソポタミアに起こった人類文明が東西へと波及していき、西廻りでは高度な科学技術が発展し、東廻りでは高度な精神文化(仏教・儒教)が発展し、19世紀の日本列島でついに両者が再会した。両者を融合させて、人類文明を完成させるのが、人類史における日本の天命……のようなことが、戦前は言われていた。

 「獨知の明を奮ふて人に伐る如きは、皆な小人之事と知るべし」は、現代のネット論客にも通じるところがある。
 個人的に、モノを説明する時にあまり一般的でない用語、特にいたずらにカタカナ語(外来語というよりカタカナ語)を多用する人間は「何か都合の悪いことをごまかしたまま、自分の意見をゴリ押ししようとしている」と疑ってかかることにしている。

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