安井息軒〈文論〉03
03-原文:蓋言有本有末。氣如烈㷔、勢如江河、波瀾以拓之、抑揚以激之、伏應有度、接開有趣、金聲而玉振之。是求於末者也〔,〕仁以貫之、忠以翼之、參之情義、以折其衷、伍之時勢、以通其變、其寓於物、發於不得已、而止於不可行、而孝友慈祥之意、每行於其中。是求於本者也。
03-訓読:蓋(けだ)し言に本有り末有り。
氣は烈㷔の如く、勢は江河の如く、波瀾以て之を拓(ひら)きて、抑揚以て之を激(はげ)まし、伏應に度有りて、接開に趣き有り、金聲して玉之を振る。是れ末に求むる者なり。
仁以て之を貫き、忠以て之を翼(たす)け、之を情義に參じて、以て其の衷を折し、之を時勢に伍して、以て其の變に通じ、其の物に寓し、已むを得ざるに發して、行ふべからざるに止み、而して孝友慈祥の意、每に其の中に行はる。是れ本に求むる者なり。
03-意訳:思うに文言には「本」(根本部分:思想)と「末」(末梢部分:修辞法)がある。
込められた気迫は烈火のごとく〔激しく熱く〕、語勢は黄河・長江のごとく〔とどまることを知らず〕、波乱(波瀾)で幕を開け、〔文章の〕抑揚が勢いをいや増し、張られた伏線には節度があって〔わざとらしくなく〕、オチ(接開)には趣きがあって〔面白く〕、〔それでいて〕全体の初めと終わりは〔きちんと形式を踏まえていて〕条理がある(金聲玉振)。これらは「末」(修辞)に求められるものである。
「仁」によって〔作品全体を〕貫き、「忠」でそれを〔両翼のように〕支え、ヒトの自然な心情(情)と社会正義(義)に〔反することが無いよう〕参照し、〔心情と正義の一方だけに偏重しないよう〕それらを折衷し、〔現在の〕時勢に与するようにして、〔同時に未来の〕変化を見通して〔それにも対応し〕、〔妄想をモチーフとするのではなく〕現実の物事にかこつけて、言わずにおれないという気持ち(不得已)から発して、もう無理だというところで止め〔、あたかもその場の感情に任せているようでありながら〕、それでいて父母に対する孝心と兄弟に対する友愛(孝友)、年少者に対する慈愛と優しさ(慈祥)といった気持ち(意)が、常に行間に溢れている。これが「本」(思想)に求められるものである。
補注:
とりあえず翻訳してはみたものの、思想畑の自分には、ここで述べられている文学表現に関する議論は、正直さっぱりわからない。識者の教示を待つ。
03-余論:息軒の文章論。
息軒は、文章には語るべき内容(思想)と語り方(修辞法)から構成されるといい、前者が「本」で後者は「末」の関係にあたるという。そのうえで、それぞれに求められるべき事柄を説明する。
○
「末」について語っているのは、要するに文章構成における起・承・転・結ではないかと思う。息軒より一世代上で広島出身の文人頼山陽(1781-1832)が、弟子に漢詩を教える際に
起:京都三条の糸屋の娘、
承:姉は十六、妹は十四、
転:諸国諸大名は弓矢で殺す
結:糸屋の娘は目で殺す
という俗謡を作ったというが、息軒の説明に当てれば、
起:波瀾以て之を拓(ひら)きて
承:抑揚以て之を激(はげ)まし
転:伏應に度有りて
結:接開に趣き有り
ということになろう。
○
息軒が「本」について語っているのは、”倫理に反する創作はするな””現実社会をテーマにしろ”ということだろう。まず、必ず普遍的倫理(仁・忠)を基軸とすること、次いで人情(情)と正義(義)のバランスを取ること、モチーフはノンフィクションに徹すること(伍之時勢、以通其變、其寓於物)、ガチること(發於不得已、而止於不可行)、それでいて全体的に優しさが行間からあふれていること(孝友慈祥之意、每行於其中)などを求めている。
つまり反社会的な内容、社会秩序を疑うような内容を不可とする。裏を返せば、芸術的・人文的な創作活動を著しく制限することになる。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?