安井息軒〈辨妄・五〉05

原文-05:至其壽夭・美醜・禍福・吉凶・智愚・賢不肖之殊、則六物爲之。當父母流氣之時、六物皆善、五福咸僃、六物皆惡、則六極盡鍾。或善或惡、爰爲中人。此世之所以多中人也。何謂「六物」。歲・時・日・月・星・辰、是已。故所謂「靈」者與肉身偕生。其從齒而增、猶肉身逐年而長。非父母先與肉身、然後耶和華人人而授之靈也。

訓読-05:其の壽夭・美醜・禍福・吉凶・智愚・賢不肖の殊なるに至りては、則ち「六物」之を爲す。父母氣を流すの時に當たりて、「六物」皆な善ければ、「五福」咸(み)な僃はる。「六物」皆な惡なれば、則ち「六極」盡く鍾(あつ)まる。或ひは善或ひは惡、爰(ここ)に中人と爲る。此れ世の中人多き所以なり。
 何をか「六物」と謂ふ。歲・時・日・月・星・辰、是れのみ。故に所謂る「靈」なる者は、肉身と偕(とも)に生まる。其の齒(よはひ)に從ひて增すこと、猶ほ肉身の年を逐ひて長ずるがごとし。父母先づ肉身を與(あた)へ、然る後耶和華の人人にして之に靈を授くるに非ざるなり。

意訳-05:〔性別のほか、〕ヒトの〔生まれついての差、つまり〕寿命の長い短い(壽夭)、容姿の美しい醜い(美醜)、恵まれている恵まれていない(禍福・吉凶)、知能の高い低い(智愚・賢不肖)が異なることについては、〔後述の〕「六物」がその差を生んでいる。

 父母が情を交わして子供を作った時に、「六物」が全て適切(善)であれば、〔生まれてくる子供には、《尚書・洪範》が「一に長寿(壽)、二に財産(富)、三に健康(康寧)、四に道徳性(攸好德)、五に天寿を全うすること(考終命)」と説明する〕「五福」がみな備わる。〔逆に〕「六物」が全て不適切(惡)であれば、〔生まれてくる子供には、《尚書・洪範》が「一に短命(凶短折)、二に疾病(疾)、三に憂鬱(憂)、四に貧困(貧)、五に不正を犯すこと(惡)、六に心身衰弱(弱)」と説明する〕「六極」がことごとく集中する。〔もし「六物」の〕一部が適切(善)で一部が不適切(惡)なら、〔生まれてくる子供は「五福」と「六極」の〕中間ぐらいのヒト(中人)となる。〔一般の夫婦は「六物」など考慮せず、その場の雰囲気に流されて子供を作るため、適切・不適切が混ざる。〕これが世間に〔「五福」と「六極」の〕中間ぐらいの人が多い理由である。
 何を「六物」と言うのか。年と四季(歳時)・太陽と月(日月)の位置・五惑星と星宿(星辰)の配置、これだけだ。

 〔「五福」における道徳性(攸好德)や「六徳」における不正さ(惡)は、ヒトの人格や知性、すなわち霊魂(靈)に関わる問題である。この霊魂(靈)が、父母が子供を作った時点での季節や天体の配置などの影響を受けるということは、子供の肉体(肉身)のみならず、霊魂(靈)もまた、父母によって生み出されたことを意味する。〕

 だから、所謂る霊魂(靈)というものは、肉体と一緒に生じるのである。その〔ヒトの知能(靈)が〕年令とともに増強していくのは、ちょうど肉体が年を逐うにつれて成長していくのと同じだ。〔霊魂(靈)は、肉体から独立して存在しているわけではない。霊魂(靈)も、また肉体と同じく「気」によって構成された一つの物質に過ぎない。〕
 〔キリスト教徒は、〕父母が先に肉体を与えて、その後でヤハヴェがヒトに霊魂(靈)を授けているの〔だというが、そう〕ではないのだ。


余論:資質と霊魂に関する問題
 西洋でキリスト教の支配に抗してギリシア・ローマ文明の復興を掲げるルネッサンス(文芸復興)運動が花開かんとしていた頃、東洋でも仏教の支配に抗して「孔孟之学」の復興を掲げる宋学と総称される思想運動が起こりつつあった。
 宋学の代表である朱子学は、「ヒトの先天的な能力に差はなく、ゆえに誰でも努力次第で「聖人」になれる。だから万人が聖人を目指して努力すべきだ」と説く。仏教の「一切衆生悉有仏性」に似ているが、恐らく禅宗隆盛の社会で儒教の再構築を試みたことが原因であろう。つまり、当時の社会通念として、その方が“正しそう”と感じられたから、朱熹は《論語》や《孟子》をそのように再解釈したのである。
 だが、それはあくまで朱熹流の解釈であって、唯一絶対の解ではない。日本の荻生徂徠は、朱熹同様《論語》や《孟子》を丹念に読み込んだ結果、「ヒトの資質は等しくなく、努力したところで、誰も「聖人」になどなれない。だから、「聖人」を目指そうなどとせず、その持ち前に応じて、社会における自分の役割を十全に果たすことだけを考えろ」という反対の主張を展開した。息軒は徂徠の立場を継承し、その〈性論〉において、ヒトの才徳には生まれつき差があると説いている。(息軒〈性論〉は、孔子以降「聖人」は一人として出現していない以上、努力次第で誰でも聖人になれるという考えは実証性に欠けると批判する。)

 念の為に付け加えておくと、息軒は後天的な教育を非常に重視している。若い頃から猛烈な勉学を重ねたことで知られ、本人もそれを自負している。逆に、努力の人であったからこそ、努力だけでは届かない天才の領域があると諦念していたのかもしれない。息軒の考えを封建的と批判するのは、早計である。我々は、主にスポーツ分野を通して、努力だけでは如何ともし難い、生まれもっての才能の差が存在する事を、よく知っているはずだ。
 ただ、名選手の子が必ずしも名選手になれないことも、我々はよく知っている。逆にスポーツに無縁だった両親のもとに天才選手が生まれることも、よく知っている。現代人は才能を「遺伝子」(血統)と理解する傾向が強いが、実際その反証には事欠かない。息軒もまた、才能や徳の遺伝を認めない。そもそも中国思想では、堯の息子である丹朱が反逆者になったこと、舜の両親が「毒親」であったことを根拠に、才徳の遺伝には否定的である。故に易姓革命や科挙の発想が定着した。息軒も幕藩体制にありながら、藩吏や幕吏の世襲制には強く反対している。

 整理すると、まずヒトの才徳には、生まれつきの差がある。そして、才徳は遺伝しない。とすれば、才徳の差はいったい何が原因で生じているのか。その原因について論じたのが、本段である。以下、息軒の思考の道筋をシミュレートしてみよう。

 同じ父母から生まれた兄弟間でも、才徳に差がランダム(つまり愚兄賢弟もいれば、愚弟賢兄もいる)に生じている以上、その原因は血筋(遺伝)や家柄(家庭環境)のような固定的なものではない。もっと可変的かつ可逆的なものだろう。また才徳の不均衡はあらゆる階層、あらゆる地方で確認できるため、原因の影響範囲は相当に広い。あまねく人々に関わり、可変的かつ可逆的な事象といえば、「日時」しかない。

 なぜカレンダー的な日付や時刻の違いが才徳の差を生むのかといえば、日時によって天体の配置が異なるからである。太陽と月は、明らかに万物の生育に強い影響を及ぼしており、恐らく五惑星や星座(星辰)もそこそこ影響しているに違いない、知らんけど。
 (こうして作られたのが、「星座占い」や「四柱推命」である。なお秦代の墓からは、生まれた日時から、官吏として出世できるか否かを占断する表が出土している。)

 だが、同じ村で同じ日に生まれた者同士の間でさえ、例えば劉邦と盧綰のように、持って生まれた才徳には差が生じる。その原因を求めれば、もはや本人同士ではなく、父母同士の違いに目を向けるしかないが、冒頭で述べたように兄弟同士で差があ〔ったりなかったりす〕ることも、考慮しなければならない。例えば、父母の生年月日では、兄弟間で差が生じないので原因となり得ない。

 ここにいたって、「生まれた時の両親の年齢」という違いが浮上する。ただ出産時の年齢だと母親の影響しか生じないため、父親の影響も加味したいのであれば、受胎時の年齢を原因とするほうがよい。
 つまり、同日に生まれた者同士は同日に受胎したはずであり、同日ということは天体の配置(六物:歳時日月星辰)も同じということになるが、父母同士の年齢の違いから、一方にとってその日が受胎に最適な配置となり、もう一方にとって不適切な配置となり、その結果、同日に生まれながら才徳に差が生じる……。

 父母の年齢の組み合わせに天体の配置まで合わせると、あり得るパターン数はそれこそ天文学的である。もしかすると、息軒は面倒くさくなったのかもしれない。《周易・説卦伝》を引いてきて、父母の年齢と受胎した月が奇数か偶数によって八卦を出して性別を判断したり、母親の年齢から受胎にむいた月を判断できるとした。

 長々と妄想を書き連ねてみたが、要するに息軒にとって重要だったのは、才徳といった霊魂(霊)の格差が生じる構造を、形而下の現象として完結させることであった。
 才徳、すなわち霊魂(霊)の差について、仏教は個々人が前世で積んだ功徳の総量で説明し、キリスト教はそれを個々人に授け給うた神の深遠なる思し召しで説明する。そうではなく、単に受胎時の環境・状況の違いによって生じるのだと、息軒は主張しているのである。

 それを踏まえて、「故に所謂る「靈」なる者は、肉身と偕に生まる」「父母先づ肉身を與へ、然る後耶和華の人人にして之に靈を授くるに非ざるなり」という結論が導き出される。これは、キリスト教が”神(GOD)がヒトに霊魂(靈)を与えたもうたのだから、ヒトは神にこそ従属すべきだ”という教義を否定して、”霊魂(靈)もまた父母によって与えられたものであり、霊魂(靈)を重視するなら尚のこと、父母に孝養をつくすべきではないか”という反論へつながるのである。

 一見すると、才徳の差を「天なり」(ガチャだ)としたうえで、確実に「五福咸な僃はる」(SSSランクレア)子供を引きあてる裏技について解説している印象があるが、それは息軒の本意ではない〔と思う。〕

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