中村正直〈記安井仲平托著書事〉

解題

 中村正直(敬宇:1832-1891)は幕末の朱子学者であり、明治初期の啓蒙思想家である。彼が、J.S.ミルの《On Liberty》(1859)を翻訳した《自由之理》(1872年)は、明治新青年の必読書となり、民権運動に大きな影響を与えた。また、キリスト教に改宗し、女子教育や視聴覚障害者の教育に尽力したことで知られる。

 中村正直は林家の英俊であり、朱子学者としての才能を高く評価され、若くして昌平黌儒官に抜擢された。その後、安井息軒(1799-1876)が古学者でありながら昌平黌の儒官に任命されたことで、知遇を得ることになる。
 慶應2年(1866)、35歳の時、幕府が選抜した留学生グループの取締役として、13名の青少年(12~23歳)を引率して英国へ留学する。出発に先立って、息軒より《管子纂詁》を託され、清国の学者に贈呈するよう依頼される。中村正直はこれを快諾し、実際に上海道台の応宝時(1821-1890)にこれを献本した。本篇は、その際に中村正直が《管子纂詁》に添えた手紙であり、事の経緯が説明され、さらに息軒についても紹介されている。

 注目すべき点としては、本篇のなかで、中村正直が自分と息軒の関係に言及して、「私は非常に彼のことを尊敬していて、俸給の上では同僚で、朝から晩まで仕事を共にしているのですが、いつも彼のことを先生や年長者として見ています」(余甚だ之を慕ひ、嚢は同僚たりて、晨夕事を共にすと雖も,而も未だ嘗て先生長者を以て之を視ずんばあらざるなり)と語っていることであろうか。
 中村正直が朱子学者であり、後にキリスト教へ改宗するという思想遍歴をたどる一方で、息軒は古学者を自称して宋学を批判し、また《辯妄》を著してキリスト教を排撃しており、両者の間に師承関係を認めることは難しい。
 ただ中村正直の名前が、息軒の経営する三計塾の《故旧過訪録・遊従及門録》に確認できるほか、中村正直の弟子で、その立ち会いのもとに洗礼を受けてプロテスタントに改宗し、後に日本メソジスト教会牧師となった平岩愃保(1857-1933)が、その生前「元来敬宇先生は碩儒安井息軒の愛弟子で、息軒は自分の後継者として敬宇先生を心密かに許して居たのであるが」云々と語っていたという証言もある。
 息軒と中村正直の交流は、ひとまず幕末維新期の思想界において、息軒がいかに重要な地位を占めていたかを物語る証拠の一つとして数えられよう。

 さて《管子纂詁》が応宝時の手に渡った後のことについては、町田三郎〈力作の『管子纂詁』〉(《江戸の漢学者たち》、研文出版、1998年6月、p.187-203)に詳しい。そこで町田三郎は、応宝時が学者としては《諸子平議》を著した兪樾(1821-1907)のグループに所属していたことを指摘し、応宝時が息軒に送った序文で指摘した問題点は兪樾の立場と一致しており、息軒と兪樾は応宝時を介して考証の論を戦わせていた可能性があると指摘した。
 ここで町田が慎重な言い回しを選んでいるのは、兪樾が〈管子平議〉などにおいて息軒《管子纂詁》を引用していないからである。だが、後に兪樾は竹添井井のために次のように書いて寄越している。

兪樾:〈日本竹添井井左氏會箋序〉(《春在堂全書》)

訓読:余 君を以て詩人と為すなり。見えて之と言ひて、始めて君と安井仲平先生とに師友淵源の舊有るを知る。先生の著に《管子纂詁》有り、余讀みて之を慕ふ。君言へらく、「先生去歲亡せり。先生亡して吾が國 古學を治むる者は絕えたり」と。余乃ち君の徒(ただ)に詩人なるのみに非ずして、而して又た學人なるを知る。

意訳:私は君のことを詩人と思っていた。会って話をして、初めて君と安井息軒(仲平)先生が師友淵源(※)の旧交があったと知った。息軒先生の著作に《管子纂詁》がある。私はこれを読み、息軒先生のことを非常に尊敬していた。しかし君が言うには、「息軒先生は去年亡くなられた。息軒先生が亡くなって、我が国で古学を修めたといえる者は絶えてしまった」と。私は〔君の悲嘆にくれた表情を見て〕君が単なる詩人ではなくて、学者でもあることを知った。

※師友淵源:竹添井井が熊本で師事した木下犀潭(1805-1867)は、江戸にいたころ息軒と一緒に文会という研究会を長らく開催する仲にあった。実は、犀潭も息軒と塩谷宕陰とともに昌平黌儒官の打診を受けたのだが、彼一人これを辞退し、熊本へと帰郷している。竹添井井が木下犀潭に入門したのは、その後であろう。
 木下犀潭の墓碑銘は、息軒が書いた。息軒《北潜日抄》によれば、竹添井井は、戊辰戦争の最中、墓碑銘を受け取りに行くという名目で、江戸を疎開していた息軒を訪ねている。息軒も、時期が時期だけに竹添のことを西国のスパイかと疑い、適当に応対していたが、やがてそうでないことが分かり、その夜はともに飲み明かし、大いに語らったという。ちなみに、この時点で息軒は、竹添を通じて官軍が中央集権制への移行、つまり廃藩置県を計画しているという情報を掴んでいる。

つまり、兪樾は実際に《管子纂詁》を読んでいたし、これに高い評価を与えてもいた。竹添井井が清国へ赴任して兪樾と交流したのは明治10年(1877)のことであるが、その時点で兪樾がすでに息軒《管子纂詁》を読破していたのであれば、やはり兪樾が目にした《管子纂詁》が、中村正直がその10年前(1866)に応宝時に贈ったものであったという可能性は、極めて高いと思われる。


凡例

一、本稿は、中村正直〈記安井仲平托著書事〉の釈文(原文)・書き下し文(訓読)・現代日本語訳(意訳)ならびに余論である。
一、底本には、中村正直《敬宇文集》6(全16)( 東京:吉川弘文館、p27b-28a)を用いる。
一、「原文」の字体は、フォントの許す限り正字体で統一する。底本の俗字・異体字は、正字体に改める。
一、「訓読」(書き下し文)は、底本に付された読点と返り点とに従う。
一、「意訳」(現代語訳)は、訓読(書き下し文)と対応するよう心がける。補足説明は〔 〕でくくって訳の一部として読めるようにし、かつ〔 〕部分を隠せば訓読(書き下し文)の直訳となるよう工夫する。
一、段落分けは、底本にはないため、訳者が文脈から判断して行う。段落分けは”///”で示す。
一、底本は句点(。)のみで読点(、)がないため、訳者が文脈から判断して、一部の句点を読点に改める。


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