安井息軒〈擬乞禁夷服疏〉07
原文-07:近聞洋學之徒、有以冬至後二日爲元日、置酒招友朋者。或著洋夷紀年於傘燭、公然揭之道路。是顯奉彼之正朔也。故夷言不禁、必穿夷服、夷服不禁、必奉夷正。如此而不已、必將有服夷敎以爲至當者。勢之所至、漸不可長也。
訓読-07:近ごろ聞くならく洋學の徒に、冬至の後二日を以て元日と爲し、酒を置きて友朋を招く者有り、と。或(ある)ひは洋夷の紀年を傘燭に著して、公然と之を道路に揭ぐ、と。是れ顯らかに彼の正朔を奉ずるなり。
故に夷言をば禁ぜずんば、必ず夷服を穿(は)き、夷服を禁ぜずんば、必ず夷正を奉ず。此くの如くして已まずんば、必ず將に夷敎に服し以て至當と爲す者有らんとす。勢の至る所、漸(ようや)く長ずべからざるなり。
意訳-07:近ごろ聞いたのですが、洋学者の中には、冬至(12月22日)の2日後を〔西洋の〕元旦【※1】として、酒を用意して朋友を招〔いて酒宴を開〕く者がいるとか。あるいは「傘燭」【※2】に西洋人ども(洋夷)の〔紀年法である西暦を使って〕年を記して、公然と道端に飾っているとか。これは明らかにあちらの暦〔、つまり西暦〕を頭上にいただいているのです。〔なお「暦を奉ずる」とは「臣従」を意味する慣用表現です。〕
ですから、西洋語(夷言)を禁止しなければ、必ず洋服(夷服)を着るようになり、洋服(夷服)を禁止しなければ、必ず〔精神的に西洋に屈して〕西暦(夷正)を頭上にいただくようになります。このような事態が止まなければ、きっと今にも基督教(夷敎)に心服して、これを極めて妥当だとする者が現れるでしょう。こうした情勢を、これ以上野放しにしてはいけません【※3】。
補注:
※1 元日:息軒は「元日」というが、冬至(12月22日)の2日後ということは、実際にはクリスマス・イヴだったのだろう。当時は基督教が禁止されていたため、洋学者たちは”西洋の「元日」”と偽ってイヴを祝ったのだろう。
※2 傘燭:未詳。表面に西暦で年を書いて街頭に飾るという。クリスマス・ツリーか。あるいはクリスマス・キャンドルか。
※3 漸不可長也:”たった今露呈したばかりの良くない事物が、それ以上発展・成長するのは容認できない”という意味。ここでは「放置してはいけない」と意訳した。
余論-07:幕末に於ける西暦の受容。
息軒は、地理と天文は西洋のほうが東洋よりも優れていると随所で明言している。明治5年の〈家塾明細表〉によれば、三計塾でも西洋の地理学・天文学を教授していたという。だが、本段では、西暦の採用に否定的な姿勢を示している。
そもそも「暦」は、政治的な意味を含む。東アジアにおいて、暦の制作は天子にのみ許され、諸侯は朝貢を通して天子より賜った暦を共用した。天子の作った暦を使うことは、すなわち臣従の証であった。ゆえに李氏朝鮮やベトナム王朝は、清の属国として、清朝の暦と年号を使用した。
逆に、周室が衰えて「下剋上」の社会となった春秋戦国時代には、魯暦や楚暦など、国ごとに異なる暦が使用された。日本も、独立国家として、「大化の改新」以来現代に至るまで、ずっと独自に定めた和暦と年号を用いてきた。
明治新政府は、明治5年(1872)に、伝統的な太陰太陽暦から太陽暦へと切り替え、日付を西洋社会と統一した。が、紀年法に関しては西暦ではなく、「明治」という年号を使用し、さらに神武天皇が即位した紀元前660年を元年とする「皇紀」を布告した。戦後、公文書では「皇紀」は使用されなくなったが、年号は継続して使用されている。
なぜ、明治新政府は独自の紀年法に固執したのか。理由は説明されていないが、本段によって幕末維新期の指導層の考えを推測することは許されよう。要するに、西暦への完全移行は西洋への屈服を意味したのである。
「令和」改元に際して、中国国内では多くの論説が発表されたが、いずれも「年号は、もともと中国の制度であり、日本は真似しただけ」「中国がさっぱり捨て去った「年号」を、日本が今なお後生大事に保存しているのは面白い」という主旨であった。「暦」が国家の主権を象徴していること、すなわち日本にとって「年号」の使用が、中国の冊封体制や西洋の植民地支配に屈しないという決意表明であることに言及した論説は見当たらなかった。
なお清末の中国では年号廃止が提言され、康有為が孔子紀年、劉師培が黄帝紀年を主張した。辛亥革命(1911)により建設された中華民国は、当初「黄紀」を用いようとしたが、結局、民国建国(1912)を以て元年とする「民国紀元」を採用した。台湾では、今なお民国暦を使用している。中国大陸では西暦を採用している。
◯
本段では、洋学者が冬至(12月22日)の2日後を「元日」として、友人を招いて酒宴を開いていたという。これは、実際には「クリスマス・イヴ」であろう。当時は基督教が禁止されていたためーー日本で基督教が解禁されるのは明治6年(1873)。慶應3年(1867)には「浦上四番崩れ」が起こっているーー、洋学者たちもキリストの誕生日を祝うとは言えず、表向き”西洋の「元日」”ということにして、イヴを祝っていたのではないか。
ちなみに昨今の中国の大学では、「伝統文化の重視」「西洋文化の抑制」という観点から、クリスマス・パーティーを禁じている場合がある。その場合、現場では表向き「新年のお祝い」として開催している。
「傘燭」は西洋の風習らしいが、何を指しているかは分からない。「傘」のシルエットから連想するのはクリスマス・ツリーだが、傘を以てモミに代用したのだろうか。待考。