安井息軒〈擬乞禁夷服疏〉04

原文-04:而輕薄浮躁之徒、專喜新奇、投時好、不復知上意所在。遂并夷言夷服而學之、短衣窄袖、穿以骰子、戴長帽、纓大嚢。未純與彼同、要傚而爲之。其仍舊裝者、獨束髪帯刀而已。夫戎裝從便而變、彼服果便。或用之敎場、未足深非。今也夷服夷言者、旁午於道路、大駭觀聽。況其所服、未見盡便於舊者。有司恬然莫有之制、實可驚怪也。

訓読-04:而るに輕薄浮躁の徒、專ら新奇、時好に投ずるを喜び、復た上意の在る所を知らず。遂ひに夷言夷服を并(あは)せて之を學び、短衣窄袖して、穿くに骰子を以てし、長帽を戴き、大嚢を纓(まと)ふ。未だ純(もっぱら)らには彼と同じからざるも、要は傚ひて之を爲し、其の舊裝に仍(よ)るは、獨り束髪帯刀のみ。
 夫れ戎裝は便に從ひて變ずれば、彼の服は果して便なり。或ひは之を敎場に用ふるは、未だ深く非とするに足らず。
 今や夷服夷言する者、道路に旁午し、大ひに觀聽を駭(おどろ)かす。況んや其の服する所は、未だ盡くは舊より便なる者を見ず。有司恬然として之を制する有る莫きは、實に驚き怪しむべきなり。

意訳-04:しかし軽薄で浮ついた連中(輕薄浮躁之徒)は、もっぱら目新しく変わったもの(新奇)や、時代の好みに乗って持て囃される事を喜んで、公儀の意図がどこにあるか分かっていない。ついには外国語と洋装(夷言夷服)を合わせて学び、短く絞った上着を着て(短衣窄袖)、〔左右の襟を〕貫くのにサイコロ〔のようなボタン〕を用い、ケビ帽〔長帽〕をかぶり、リュックサック(大嚢)を背負う(纓)。
 まだ完全には彼〔ら西洋人〕と同じ〔格好〕ではないが、主要なところは模倣しており、従来の服装(舊裝)に従っているのは、ただ髷と腰に帯びた日本刀(束髪帯刀)だけである。

 そもそも洋装(戎裝)は利便性にしたがって変化してきたので、彼ら〔西洋人〕の服装はやはり〔何かと〕便利ではある。あるいはこれ〔すなわち西洋式軍服〕を〔幕府陸軍「伝習隊」の〕練兵場(敎場)で着用しているだけなら、まだそこまで非難するに足りない。(※)

 〔しかし、〕今では洋装して外国語を喋る(夷服夷言)者は道路を盛んに往来し(旁午)、大いに〔人々の〕耳目を驚かせている。ましてその着用している洋装は、まだ全ての点で従来〔の和装〕より便利という風には見えない。司法(有司)が平然(恬然)としてこれを禁制する動きがないのは、実に意外で疑問である。

補注:
※誤訳を改めた。旧誤「採用しているくらいなので、〔洋装が和装より優れていることを〕まだ完全否定するには足りない」

余論-04:幕末の洋装について。
 幕末における洋装者の様子を描く。息軒がここで描くのは、「大嚢」「敎場」といった単語から、幕府が慶應3年(1867)にフランス軍顧問団の協力の下で設立した西洋式陸軍歩兵部隊「伝習隊」ではないかと思う。
 彼らは幕府直属の精鋭部隊という触れ込みではあったものの、旗本・御家人ではなく、博徒・やくざ・雲助・馬丁・火消など、所謂る”無頼の徒”で構成されていた。彼らは、注目を浴びたいという自己顕示欲から、西洋式軍服姿で市中をウロウロしていたのかもしれない。
 これを禁じるよう、息軒は建言する。


 また外国語(夷言)を話す者とは、文久3年(1863)に設立された洋学研究機関「開成所」で英語・仏語を学んでいた学生であろうか。

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