安井息軒〈地動説〉04
原文-04:延寶中、西洋南懷仁、如清獻其書。清主以爲妖言惑眾、焚之東華門外。儒者因而斥之、不復究其說所由來。我嘗試思之、其言極近於理、而適見天動之可怪矣。請舉其最易見者一以證之。而其餘可類推焉。
訓読-04:延寶中、西洋の南懷仁、清に如(ゆ)きて其の書を獻ず。清主以て妖言眾を惑すと爲し、之を東華門の外に焚く。儒者は因りて之を斥(しりぜ)け、復た其の說の由りて來たる所を究めず。
我嘗て試みに之を思ふに、其の言極めて理に近くして、適として天動の怪しむべきを見(しめ)す。請ふ、其の最も見易き者一を舉げて以て之を證さん。而して其の餘は類推すべけん。
意訳-04:延宝年間(1673-1681)の頃、西洋の〔ベルギー出身のイエズス会宣教師である〕フェルビースト(南懷仁:Ferdinand Verbiest、1623-1688)が清国に行って、その〔西洋天文学について解説した〕書物を献上した。〔ところが、当時の〕清国皇帝〔である康煕帝〕はこれを妖言で民衆を惑乱させる書物だとして、紫禁城の東華門の外で焚書〔にし、禁書扱い〕にした。〔清朝の〕儒者はこれが原因でこれ〔、すなわち西洋天文学〕を排斥して、二度とその学説の根拠や原理について考究しなかった。
私はかつて試しにこれ〔、すなわち西洋天文学〕について検討してみたことがあるが、その説明は極めて合理的で、天動説の疑わしい点を明らかにしていた。その中から最も分かりやすい説を一つ挙げて、〔天動説の矛盾を〕証明してみたい。〔一つ挙げれば、〕その余は類推できるだろう。
余論-04:清朝における地動説の受容
息軒の本段における説明には、以下のような誤謬がある。
まず、フェルビーストが中国を訪問したのは1659年であり、延宝年間(1673-1681)ではない。その時点で、すでにドイツ人イエズス会宣教師アダム・シャールが欽天監監正(北京天文台館長)として清朝に仕え、西洋天文学にもとづく改暦作業を進めており、フェルビーストもすぐ欽天監副(北京天文台副館長)に就任してアダム・シャールを補佐した。そもそも、彼の著作が焚書されたことも(たぶん)ない。
1664~1665年にかけて、楊光先(1597-1669)の誣告により、フェルビーストはアダム・シャールとともに投獄される。世に言う「康煕暦獄」だが、これもまた延宝年間(1673-1681)のことではない。
ただし、この「康煕暦獄」で焚書が行われたのは事実である。楊光先が《辟邪論》を著してキリスト教を排撃し、ついで西洋人に中華の改暦を委ねることに異を唱えた際、欽天監夏官でアダム・シャールの弟子でもあった李祖白が《天学傳概》(1663)を著して反駁した。楊光先はこれに再反駁し、その結果、李祖白は処刑され、その《天学傳概》は焚かれた。その時、アダム・シャールやブーリオ(利類思:Lodovico Buglio、1606-1682)の蔵書も焚かれたという。
「康煕暦獄」から釈放された1年後にアダム・シャールが客死すると、フェルビーストがその改暦作業を引き継ぎ、1868年に西洋天文学にもとづく「時憲暦」を完成させると、康煕帝はこれを施行し、清朝は滅亡までこの暦を使い続けた。フェルビーストは、1673年から死没する1688年まで、欽天監監正として康煕帝(在位:1661―1722)の信頼を得た。
○
注目すべきは、西洋天文学を拒絶した事例として、清朝の対応が取り上げられていることである。上述のように、その事例には、史実とは異なる誤謬があるが、ここで息軒は、西洋天文学を「妖言眾を惑す」として頭から拒絶する頑迷固陋な清朝儒者と、「試みに之を思ふ」柔軟さと「其の言極めて理に近くして、適として天動の怪しむべきを見す」とする客観性を兼ね備えた自分たち日本儒者とを対照させている。
一般的に、東アジアの近代化は、“中国は儒教的伝統に固執するあまり西洋文明を拒絶し、近代化に遅れを取った。しかし日本は儒教の支配力が小さかったことから、西洋文明に柔軟に対応できため、近代化にあっさり成功した”云々と総括される。
本段の内容は、こうした「日中の西洋文明に対する姿勢の違い」という観念が、日中近代化の成否という結果を見た上で、結果論として後付的に形成されたものではなく、まだ近代化(あるいは西洋化)の是非そのものが議論されていた幕末維新期において、すでに日本の知識層に明確に自覚されていたことを示す。
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