12-原文:昔者楊墨塞道、孟子闢之、使聖道復明於後世。耶蘇之塞道、百倍楊墨。今雖嚴禁其教、其言則浸淫於洋書之中、其害人心、已有如此者焉。予老矣。不能復與東西風靡之徒、辨其是非邪正。足下亦知我心之悲耶。
12-訓読:昔者(むかし)楊・墨 道を塞ぐも、孟子之を闢(しりぞ)け、聖道をして復た後世に明らかならしむ。耶蘇の道を塞ぐや、楊・墨に百倍す。今其の教を嚴禁すと雖も、其の言は則ち洋書の中に浸淫し、其の人心を害するや、已に此くの如き者有り。予老いたり。復た東西風靡の徒と、其の是非邪正を辨ずる能はず。足下も亦た我が心の悲しきを知らんや。
12-余論:楊・墨とは、先秦諸子である楊朱と墨翟を指す。両者は、孟子に排撃されていて、《孟子》には次のようにある。
楊朱の名を冠した諸子文献としては、《列子》収録の〈楊朱〉篇がある。この篇には、人生は百年に満たぬほど短く、そのうえ多くの苦渋に満ちていると悲観したうえで、「人生において何を為し、何を楽しむか。美味しいものを食べて、豪華な衣服を着るだけだ。音楽や踊りを見たり聞いたりして、美女を抱くだけだ」(則ち人の生くるや奚をか為さんや、奚をか樂しまんや。美厚を為すのみ、聲色を為すのみ」という享楽主義(ヘドニズム)の傾向が認められる。(参照:高瀬武次郎《楊墨哲学》)
〈楊朱〉は、禁欲傾向の強い中国思想なかでは異彩を放っているが、それだけに、この篇が先秦時代に成立したと考える研究者はあまりいない。多くの場合、「竹林の七賢」に象徴される、厭世主義が支配的であった魏晋貴族社会の産物と考えられている。個人的には、より平和で、門閥主義が支配的で、神秘主義が隆盛した後漢の貴族社会のほうが思想的母体として相応しいように思う(が、特に確証があるわけではない)。
この《列子・楊朱》を除けば、楊朱が享楽主義であったことを裏付ける資料はない。わずかな先秦文献が証言する楊朱(陽子居・ 陽生)の思想は、個人主義であり、国家権力よりも自己の身体的生命の保存を優先する極端な健康志向(自己保全主義)である。
加地伸行などによれば、儒教とは宗族制にもとづく不死信仰の一種である。自分なりに咀嚼した理解にもとづけば、中国人は祖先から自身を経てまだ見ぬ子孫たちへとつながっていく大いなる「気」(血脈・生命)の流れを仮想し、自分もその大いなる「気」の一部だと思い込むことで、個人としての死に対する恐怖から目をそらしている。宗廟における祖先祭祀や葬礼などは、目には見えぬ「気」の存在性を、みんなで確認するための作業に過ぎない。そういう意味では、楊朱はあくまで個人としての「生」、他ならぬこの「自分」に執着した思想家と言えるかもしれない。
墨翟の思想は、《墨子》に詳しい。概説書(浅野裕一《墨子》)もあるので、説明は省略する。
13-原文:足下嘗遊於我門、與聞忠孝仁義之說、非純從事於洋學者之比也。是以敢一言之。苟亦與彼徒附和、以唱共和之說、其罪甚於不知而爲之者。請自此絕、勿再踵我門。若猶未也、亦愼所以自處。書不盡言、唯足下思之。不宣。
13-訓読:足下嘗て我が門に遊び、與(とも)に忠孝仁義の說を聞けり。純(もっぱ)ら洋學に從事する者の比に非ざるなり。是を以て敢へて之を一言せん。苟しくも亦た彼の徒と附和し、以て共和の說を唱ふるや、其の罪は知らずして之を爲す者より甚だし。請ふ此れより絕たん、再び我が門に踵(いた)る勿かれ。若し猶ほ未だしきや、亦た自ら處る所以を愼しめ。書は言を盡さず、唯だ足下之を思へ。不宣。