安井息軒〈文論〉

解題

  〈文論〉とは、安井息軒の没後2年目に、息軒の内孫安井千菊と外孫安井小太郎により刊行された《息軒遺稿》に収録された一篇。執筆時期は未詳。
 息軒は文章は一定の目的(道)のために書かれるべきだと考える。すなわち人々を道徳実践や社会正義の実現に駆り立てるような内容を持たなければ、全く無意味だと主張する。次いで、作品が広く人口に膾炙するためにも、修辞に力を注ぐことを求める。内容がよくとも、つまらなければ誰も読まないし、人々に読んでもらえなければ意味がないからである。
 江戸時代に流行していた大衆文芸に耽溺することへの警告のようでもあり、明治初期から盛んだった西洋事情をもてはやす風潮への批判のようでもある。いずれにせよ、創作者に対して社会的責任を自覚を促している。

 儒者(教育者+政治家+文献学者)のイメージが強い息軒だが、その処女作は紀行文《志濃武草》である。清武の豪商南村恵蔵の支援によって大阪遊学が決まった22歳の息軒は、出立に先立って、清武(宮崎市清武町)から都於郡(宮崎県西都市)まで二泊三日の小旅行に趣き、道中目にした光景を和歌・俳句・漢詩で歌い上げている。(参考:田中司郎〈安井息軒著《志濃武草》の注釈〉及び《青春の息吹/安井息軒『志濃武草』解読と紀行》)
 また40歳で飫肥藩の藩職を辞して江戸へ来た後、44歳で最初に刊行したのも漢詩紀行文《読書余摘》である。つまり息軒は、まず詩人として文筆活動をスタートさせたのである。
 本篇において息軒は、《春秋左氏伝》の「不朽」を踏まえて、立徳・立功・立言のうち、「立言」は社会貢献という点で前二者より遥かに劣り、けっして同列に置くことはできないとする。
 一見すると、世の売文家(俳人や浮世草子作家)を痛罵するかのようであり、想像をたくましくすれば、古学を標榜する息軒が、徂徠の死後、風流文人へと堕した服部南郭・安藤東野・平野金華ら徂徠学詩文派を批判したようにも見える。が、もしかすると、本篇は過去の自分との決別、つまり”もう二度と紀行文や漢詩といった文芸作品は書かない。今後は、純粋な儒者として社会貢献に邁進していく”という決意表明だったのかもしれない。

補足:「立言」は「意見を表明すること」であり、詩文を作ることとは限らない。


凡例

一、本稿は、安井息軒〈文論〉の釈文(原文)・書き下し文(訓読)・現代日本語訳(意訳)ならびに余論である。
一、底本は、《息軒遺稿》(東京:安井千菊、1878年、1卷16頁裏-18頁表)を用いる。
一、「原文」の字体は、フォントの許す限り正字体で統一する。底本の俗字・異体字は、正字体に改める。
一、「訓読」(書き下し文)は、底本に付された読点と返り点とに従う。
一、「意訳」(現代語訳)は、訓読(書き下し文)と対応するよう心がける。補足説明は〔 〕でくくって訳の一部として読めるようにし、かつ〔 〕部分を隠せば訓読(書き下し文)の直訳となるよう工夫する。
一、段落分けは、底本にはないため、訳者が文脈から判断して行う。
一、底本は読点(、)のみで句点(。)がないため、訳者が文脈から判断して、一部の読点を句点に改める。

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