安井息軒〈與某生論共和政事書〉
凡例
一、本稿は、安井息軒〈與某生論共和政事書〉の解題・原文・訓読・現代語訳ならびに余論である。
一、底本は、《息軒遺稿》(東京:安井千菊、1878年、2卷11頁裏-14頁裏)を用いる。なお、本篇の初出は《辯妄》(中西源八蔵版、1873年)である。
一、原文の字体は、フォントの許す限り正字体で統一する。底本の俗字・異体字は、正字体に改める。
一、訓読は、底本に付された読点と返り点とに従う。
一、現代語訳は、書き下し文と対応するよう心がける。補足説明は〔 〕でくくって訳の一部として読めるようにし、かつ〔 〕部分を隠せば書き下し文の直訳となるよう工夫する。
一、段落分けは、底本にはないため、訳者が文脈から判断して行う。
一、句点は、底本にはないため、訳者が文脈から判断して、一部の読点を句点に改める。
解題
安井息軒〈與某生論共和政事書〉(某生と共和政事を論ずる書)は、題名の通り、安井息軒が欧米の共和政治について批判的に論じた一篇である。
本篇において息軒が予言した共和制(首長公選制)の機能不全は、現代日本の民主政治の現況をほぼ完璧に言い当てている。もちろん息軒に共和制社会を実際に見聞・観察できたはずもなく、おそらく福沢諭吉《西洋事情》や中村正直を通して得た情報を分析したに過ぎまいが、その正確さは「知の巨人」の名に恥じない。
思うに、本篇は、明治日本が君主制を堅持して共和制へ向かわなかった”表向きの理由”を代弁しているといえようか。一般論としては、明治新政府が君主制を堅持した理由は、"薩長土肥が主導する明治新政府の正統性を支えている最大の根據が「天皇を擁立している」事であり、天皇制を廃して共和制なぞにすれば、自分たちの優位性が失われることは明白だったから”だが、新政府としてはそれをそのまま民権家に向かって言い放つわけにはいかず、別のもっともらしい”建て前”を唱えていたはずであり、それは民権家の言説にかき消されてほとんど伝わっていないけれども、あるいは本篇のような内容でなかったろうか?
○
本篇の初出は、息軒が明治6年(1873)2月のキリスト教解禁令の半年後、同年8月に刊行したキリスト教批判書として有名な《辯妄》である。息軒はその3年後の明治9年(1876)に逝去するが、没後2年目の明治11年(1878)に刊行された《息軒遺稿》の第2巻に、本篇は再録されている。
《息軒遺稿》は、芳野金陵(1802-1878)の序文によれば、息軒の内孫(息軒の次男謙助の長子)で家督を継いだ安井千菊(1865-1883)により刊行され、奥付の「出版人」も安井千菊名義となっているが、川田甕江(1830-1896)の序文によれば、遺稿の編集・校訂には外孫(息軒の長女須磨子の長男、中村貞太郎の遺児、祖父息軒の養子)の安井小太郎(1858-1838)も大きく関わったらしい。
刊行時、千菊がいまだ13歳に過ぎなかったことを思えば、あるいは編集・校訂を主導したのは、すでに20歳に達し、島田重礼(1838-1898)の雙桂精舎に入門して2年目となる小太郎のほうだったと見るべきであろう。もちろん、息軒の没後しばらく三計塾を預かっていた山井清渓(1846-1907)や《論語集説》と《孟子定本》の校勘を進めていた松本豊多など、安門の高弟が助力したであろうことは想像に難くない。
なお《息軒遺稿》が収録する遺文はいずれも漢文だが、全編にわたって読点と返り点が施されているので、読解はそこまで困難ではない。ただ、この読点と返り点は、息軒の手稿がいずれも白文であることから推して、刊行に際して付されたものと推測される。
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本篇は、息軒が「某兄」に送った絶縁状という過激な体裁で書かれている。冒頭で「某兄」と呼びかけられる人物が具体的に誰を指すかは未詳だが、初出の《辯妄》がキリスト教を批判することから、昌平黌儒官でありながら、早々に洗礼を受けてキリスト教徒に転向した中村正直(敬宇:1832-1891)を指すとする説が、有力である。(参照:山本幸規〈安井息軒の〈弁妄〉と明治初年のキリスト教界〉)
ただ中村正直は朱子学を奉ずる林家の秀才であって、息軒のような古学者ではなかったし、また息軒より30歳以上若いとはいえ、息軒より先に昌平黌儒官に着任しており、身分的には息軒の元同僚にあたるから、果たして息軒が本篇を通して「足下嘗て我が門に遊び、忠孝仁義の說を與に聞く」と言い放ち得るか、いささか疑問を覚えなくもない。
とはいえ、中村正直の自宅で洗礼を受けてキリスト教徒となった平岩愃保(1857-1933)による「元来敬宇先生は碩儒安井息軒の愛弟子で、息軒は自分の後継者として敬宇先生を心密かに許して居た」という証言があり、また三計塾の《故旧過訪録・遊従及門録》の〈游従〉の項目に「昌平助教中村敬助」と見え、全くの没交渉というわけでもない。
※なお《故旧過訪録・遊従及門録》の編者である安井小太郎によれば、「游従」とは「〔息軒にとっては、学識的に自分と同格であり、〕年齢差を超越した友人。ただし彼らは学費を納めて門弟を名乗っていたわけではないものの、経文について息軒の指導を受けたことがあり、かつ年齢も相当離れているので〔、彼らのほうでは息軒の友人を自認していたか分からず、「故旧」(長年の友人)・「門」(門弟)とは別に〕、「游従」という項目を設けた」(此れ皆な忘年の友なり。但だ贄を執りて弟子を稱せずと雖も亦た嘗て經を質し文を問ひて、而も齒も亦た相ひ縣かるが故に之を目して「游從」と爲すと云ふ)。
全くの余談だが、《左氏会箋》の作者として知られる竹添井井は、明治8年に清国へ赴任した際、兪樾に向かって息軒との関係を吹聴したらしく、兪樾は「余君(=竹添井井)を以て詩人と為すなり。見て之と言ひて、始めて君と安井仲平先生と師友淵源の舊有るを知れり。〔息軒〕先生の著に《管子纂詁》有りて、餘讀みて之を慕ふ。君言へり「先生去歲亡す。先生亡して吾が國の古學を治むる者は絕えり」と竹添に送っている。
没交渉どころか、中村正直は幕命を帯びて英国へ出立する際、息軒より《管子簒詁》の原稿を託され、これを上海で應寶時(1821-1890)に手渡して、息軒のために序文を請うという難役を果たしている。應寶時は、清末の考証学者兪樾の研究グループに属していた。(参照:町田三郎〈力作の『管子纂詁』〉)
ともあれ、中村正直は《辯妄》より遅れること2ヶ月、明治6年10月に米国の共和制度を解説したランソム・ギルレット《共和政治》(1873)の訳書を刊行してもいるから、たとえ中村正直本人が息軒に向かって「同學の徒,百有餘人,盛んに共和政事の美を唱へ、謂此に非ずんば以て國を富まし兵を强くする能はず、其の是非や如何」と詰問せずとも、この「同學の徒,百有餘人」に向かって「共和政事の美」を説いたのが中村正直であった可能性は、ある。
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以上を踏まえれば、本篇の成書年代は、中村正直が英国留学から帰国した慶応4年(1868)から《辯妄》が出版された明治6年(1873)8月の間ということになろう。上限については、本篇が完全に天皇制を前提としており、《救急或問》や《時務一隅》と異なり、幕藩体制に全く言及していないことから、上限は明治元年(1868)以降、あるいは明治4年(1871)の廃藩置県以降と考えられる。下限については、「同學の徒,百有餘人」が三計塾の塾生を指すとすれば【※】、明治5年(1872)の「官費留学生私塾差止」によって三計塾でも100人以上いた塾生が一気に10数人にまで減るという事態が生じているので、それ以前ということになる。以上をまとめれば、成書時期は明治4~5年頃ではないか。
※「同學の徒,百有餘人」は、「某兄」が経営する私塾の塾生と思われる。本文をさらに読み進めれば、「今や公然と、廢立を私塾に唱へ、而(しか)も之が師と爲る者も、亦た之を禁ずるを知らず」という批判が見えるからだ。そうすると、「某兄」が中村正直であるか否かが微妙になる。
中村正直は明治6年(1873)3月に自宅内に私塾「同人社」を開いて英語を教え始める。この「同人社」内で塾生らが共和制について熱心に語り合っている光景は、容易に想像できる。
《辯妄》の刊行は同年8月なので、本篇が中村正直と同人社を批判するために書かれた可能性は、やはり依然として残る。