安井息軒〈星占說〉03

03a

原文-03a:西洋則以天爲一大機關。月及五星皆地球、與是地運轉於大虚中、而日則中處不動。月之於我、猶我之於月。故我之日食、則月之月食。月之日食、則我之月食。雖異如彗孛、其出皆有常度、不足以爲變。

訓読-03a:西洋は則ち天を以て一大機關と爲す。月及び五星は皆な地球にして、是の地と與(とも)に大虚の中を運轉して、而も日は則ち中處して動かず。月の我に於けるや、猶ほ我の月に於けるがごとし。故に我の日食は、則ち月の月食なり。月の日食は、則ち我の月食なり。「異」なること彗孛の如しと雖も、其の出づるや皆な常度有りて、以て「變」と爲すに足らず。

意訳-03:西洋人は天地自然(天)を一つの大きな〔機械的に動いている自動〕機関と見なす。〔西洋天文学によれば、〕月と五惑星はみな土塊でできた球体(地球)で、この地球(地)とともに何もない広大な空間(大虚)の中を公転運動しており、太陽は中央に位置して動かない。

 月にとっての我々〔地球〕は、ちょうど我々〔地球〕にとっての月のようなものだ。だから、我々〔地球から観測するところ〕の日蝕は、〔地球-月-太陽の配置で生じるため、月から地球を観測すれば月の影が地球にかかった状態になることから、〕月〔にとっての〕の月蝕である。月〔から観測するところ〕の日蝕は、〔月-地球-太陽の配置で生じるため、地球から月を見れば地球の影が月にかかった状態になることから、〕我々〔地球にとって〕の月蝕である。

 〔月蝕と日蝕は、毎日起こる天文現象ではないという意味で〕「異常」(異)なのは彗星(彗孛)のようだが、その出現にはみな一定の周期があり、〔計算によって予測可能な、起こるべくして起こる現象に過ぎないという意味では〕「異変」(變)とするには足りない。

余論-03a:西洋天文学の紹介
 息軒は、その最晩年に執筆した《睡餘漫筆》において、「西人は彗星の如きも、出るに定期ありと言へるは、予未だ其の理を窮めざるゆへ詳らかに其の是非を云ふこと能はず」と告白している。本段では、日蝕・月蝕は「常度」ありと断言しながら、彗星(彗孛)については、やや含みを持たせている。


 本篇冒頭で息軒が触れた「1843年の大彗星」は、クロイツ群(Kreutz Sungrazers)に属する彗星で、数百年前に巨大彗星が分裂してできた欠片の一つである。クロイツ群に属する欠片は同一軌道を周回しているが、一つ一つの間隔は不規則なため、例えば1880年、1882年、1887年と集中的に現れることもある。当時は、軌道が同じことから、この三つを同一の彗星と見なし、軌道周期が何らかの理由で増減しているという説も唱えられたが、1888年にハインリッヒ・クロイツが上記の説を唱えて、それが定説化している。

 「1843年の大彗星」が出現した当初、西洋ではこれを1680年のキルヒ彗星の再来と考える学者もいた。日本では、幕府天文方は1769年のメシエ彗星との類似性を指摘している。
 また内田五観(1805-1882)《彗星真言》は「天保十四年(1848)癸卯二月見ル所ノ大彗星ハ、 橢圜行ニテ、 三百七十六年ニ一周ス」と述べ、367年前、すなわち「1472年の彗星」と同一だとした。ただし同書注では「或ハ云、此彗、寛文八年(1668)成申正月出ル所ノ彗ト諸事相似テ、人多ク一彗トス」という一説を紹介している。(参考:島野達雄・湯谷博〈内田五観「彗星真言」/校注と解説〉)
 この寛文8年(1668)の彗星(1668 Gottignies)は、寛文4年(1664)の彗星とともに「白氣」であり、幕府儒官林鵞峯はこれを「天譴」と解釈したが、幕府側に特に対応は見えないという。
 息軒が彗星の周期性について「未だ其の理を窮めざるゆへ」というのは、諸説紛々の状況が理由であろうかと思われる。

03b

原文-03b:天之與人、邈焉不相接。其説忽聞可驚、徐而察之、蓋亦有不盡誣者焉。

訓読-03b:天と人と、邈焉にして相ひ接せず。其の説忽ち聞かば驚くべし。徐かに之を察すれば、蓋し亦た誣を盡さざる者有り。

意訳-03b:〔東洋では目的論的宇宙観に立脚した天人相関的な考え方が一般的だが、西洋天文学は機械論的宇宙観に立脚しており、〕天地自然の領域(天)とヒトの領域(人)は、遠く隔たっていて(邈焉)互いに接していない。その〔天人分離的な〕学説はぱっと聞くと〔実感とかけ離れていて〕驚くけれども、じっくり静かに考察してみると、思うに〔そこには適当な言葉を並べて〕ヒトを騙そうという嘘偽りはない。〔「実事求是」に通じる真摯な学問態度が認められる〕

余論-03b:東西の天人関係の対照。
 息軒は、西洋天文学は天象と人事を無関係と捉えると説明する。
 杉岳志〈書物のなかの彗星〉によると、江戸前期の井口常範《天文図解》(元禄6年(1693))が、すでに”彗星は吉凶の予兆などではなく、将来的には日蝕や月蝕と同じ様に予測可能になるだろう”と述べている。また西洋天文学を初めて体系的に紹介した吉雄俊蔵《遠西観象図説》(1823)も、”かつては西洋でも彗星を凶兆と見なしていたが、やがて出現が予測できるようになって、いまでは「天象の常」としている”という。
 その一方で中国の遊子六《天経或問》の影響を受けて、彗星を地上の「氣」が突発的に噴出したものと捉え、これにより地上の陰陽の「氣」のバランスが崩れることで、争乱や水害・旱魃が引き起こされるという考え方も依然として有力だった。例えば司馬江漢《和蘭天説》(1795)なども「氣」によって彗星の出現を説明している(割注で、彗星は楕円軌道を描く天体であるとする西洋の学説に言及している)。ただし司馬江漢《刻白爾天文図解》(1808)では彗星を「氣」とする説は消え、彗星の楕円軌道が図示されている。
 《天経或問》の考え方は、「氣」の感応という点に現代人は違和感を覚えるだろうが、実のところ、超越者の意志が介在しない機械論的自然観に立脚している。だから「彗星」の後では何らかの災害が”必然的”に起こるにせよ、それは機械的に派生するため、祈祷やまじないは意味をなさない。為政者にできるのは、やがて到来する災害に備えることだけである。
 ところが、京都の御所では別の考え方をしたとみえ、天保14年の彗星に際しては、加持祈祷を通して攘災を図った。その後も、朝廷は彗星のたびに加持祈祷を命じており、幕府とは対照的な姿勢を示している。


 本篇冒頭で「竊かに謂へらく」云々として述べられた、息軒の当初の考え方は《天経或問》由来の考え方だと言える。息軒が、その後立場を改めて、”彗星は予測可能な天体現象である”としたかは、上述の通り、曖昧である。

03c

原文-03c:然二極之爲軸、孰使氣運動不止。而二極之外、恒星之上、又有何物以包之。其不可得而知者、彼亦竟不能得而知焉、則亦何貴於夫知哉。

訓読-03c:然かれども二極の軸を爲し、孰れか氣をして運動して止めしめざる。而も二極の外、恒星の上、又た何物か有りて以て之を包む。其の得て知るべからざる者、彼も亦た竟ひに得て知る能はざれば、則ち亦た何ぞ夫の知より貴からんや。

意訳-03c:〔西洋天文学が、多くの点で東洋天文学より優れているのは確かである。〕しかしながら〔天の北極と天の南極の〕二極を軸として、誰が大気(氣)に止むことなく運動させ続けているのか。〔天の北極と天の南極の〕二極の外側、〔天球上の位置をほとんど変えることのない〕恒星の上層には、またどんな物があってこれら〔全ての星々〕を包んでいるのか。

 こちら〔の東洋天文学〕に分かっていないことは、彼ら〔西洋天文学〕にも結局は分かっていないのだから、どうして〔西洋の知性が〕こちらの〔東洋の〕知性より上だ(貴)ということになろうか、いや、ならない。

余論-03c:西洋天文学の限界
 西洋天文学にも限界はあって、例えば大気を動かしている「動因」については分からないし、宇宙の外側はどうなっているかという質問にも答えられない……と、息軒は指摘する。
 次段では、大気(氣)の動きについての説明がある。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?