安井息軒〈地動説〉

解題

 安井息軒〈地動説〉は、天動説を批判して、地動説を支持する。


 息軒〈地動説〉の正確な執筆時期は、未詳。
 だが、本篇中の「大陽之大於地球、一百三十八萬四千四百七十倍」の数値が、ミューヘッド(William Muirhead,慕維廉,1822-1900)漢訳《地理全志》(上海,1854年)の「其大于地球也、一百三十八萬四千四百七十倍」と完全に一致していることから、《地理全志》の刊行後、すなわち1854年以降と推測される。
 また《地理全志》は、刊行のわずか5年後、安政6年(1859)に、息軒の師友鹽谷宕陰(1809-1867)が訓点を施した和刻本が刊行されている。息軒が、宕陰版《地理全志》を参照したとすれば、〈地動説〉の著述年代は1859年以降ということになる。


 本篇では、天文学にまつわる具体的な数値がいくつか挙げられているが、門外漢の報告者には、上述の「138万4470倍」以外、数値の典拠が分からなかった。以下、専門家の教示を期待して本篇が挙げる数値を列挙しておく。

①地球之徑:約三萬五千里
②日之距地面:三萬一千七百萬里
③日躔之徑:六萬三千四百萬零三萬五千里(「百」の後の「萬」は衍字)
④日之規於大空:約二十萬萬餘里
⑤大陽之大於地球:一百三十八萬四千四百七十倍

※補注
里:日本と中国では1里の長さが異なる。また時代によっても異なる。息軒が準拠する尺度は、未詳。ただし現代の天文学の数値から逆算した場合、1里=0.364kmとなり(唐代が1里=0.32kmだったいう説もある)、中国古代(周漢)の尺度(1里=0.4km)を当てはめるのが最も近い。この尺度を用いてメートル法に換算すると、

①地球の直径:現代天文学 1万2742km
                      :息軒 約3万5000里=約1万4000km
      :《地理全志》 赤道直径2万6400里、極直径2万6300里
②地表-太陽間:現代天文学 1億4960万km
      :息軒 3億1700万里=1億2680万km
③日躔之徑(①+②×2):現代天文学 2億9920万km+1万2742km
      :息軒 6億3403万5000里=2億5361万4000km
      :《地理全志》 6億3000余万里
④日之規於大空(③×円周率):現代天文学 9億3948万8000km
      :息軒 約20億里余り=8億km
      :《地理全志》 21億6300万里
⑤大陽の体積:現代天文学 地球の約130万倍
      :息軒 138万4470倍
      :《地理全志》 138万4470倍


 儒学に限らず、思想は往々にして自然界との類比を以て自説の根拠としようとする。たとえば、”自然界では様々な生物が調和して暮らしているのだから、ヒトも自然を見習って、様々な民族・人種が仲良く暮らせる共生社会を実現しなくてはなりません”の類だ。
 たとえ自然界がそうだからといって、人間社会がそれに倣わねばならぬ理由は全く説明されていないのだが、この「自然界との類比」という論法は不思議な説得力を伴って我々に迫ってくる。

 ただし、この「自然界との類比」に頼り切っていると、科学技術の発達によって従来の自然観や宇宙観に大きな見直しが迫られる事態が生じたとき、その思想的根拠を一気に失ってしまうという危機に直面する。
 その時、従来の価値観を守らんとして、新たな科学的知見を葬り去らんと画策するのは、無知な大衆ではなく、当代の知識人であることが多い。
 例えば、17世紀にガリレオが地動説を唱え始めたとき(言うまでもなく、地動説の先行者にはコペルニクスが存在する)、カトリック教会は彼を糾弾し、異端審問で有罪判決を下した。バチカンがこの判決を取り消すのは1992年のことである。また、ハイゼンベルグが不確定性原理を唱え始めたとき、反対の急先鋒に立ったのはアインシュタインであった。

 地動説と地球球体説が、宣教師によって儒教圏へもたらされた際にも、大いに物議を醸すこととなった。儒教教説が、天動説と「天円地方」の宇宙観に立脚していたからである。
 日本では、朱子学者林羅山が、地動説と地球球体説を唱えるイエズス会士ハビアンを相手に「地球論争」を行い、これを論破している。

 とはいえ、明朝と清朝はそれぞれアダム・シャール(Johann Adam Schall von Bell、湯若望、1591-1666)を召し抱えて彼に改暦を命じ、特に清朝はフェルビースト(Ferdinand Verbiest、南懐仁、1623-1688)が西洋天文学に基づいて作った「時憲暦」を採用し、その滅亡まで施行し続けた。日本でも、渋川景佑らが西洋天文学を直接用いて作り上げた「天保暦」を採用し、明治5年まで施行した。日中の天文学者をしても、西洋天文学の正確さは否定できなかったのである。
 かくして儒者は、西洋天文学が前提とする地動説と地球球体説に向き合うことを迫られる。

 息軒の場合、古学者を自認し、自覚的に朱子学者でなかったことが、幸いにも地動説の受容を比較的容易ならしめたと思われる。

 朱子学では宇宙論(自然法則)と倫理道徳(当為法則)が密接に結びついているため、宇宙論の大幅な改変は思想体系全体の動揺を招きかねない。西洋天文学の宇宙論をそのまま受容することには、大きな心理的抵抗が生じる。
 その結果、たとえば、懐徳堂の朱子学者中井履軒は、西洋天文学(地動説・地球球体説)と天動説(太陽が地球を周回する)とのすり合わせを試み、地球を定点とした太陽系模型図「天図」を作成している。(参照:「懐徳堂記念会」http://www.let.osaka-u.ac.jp/kaitokudo/kaitokudo/mame_details.html?id=44)

 だが、息軒や徂徠は倫理道徳の根拠を歴史性に置くため、つまり、古代の聖人ーーこの聖人はキリスト教の「聖者」のような神秘的存在ではない。L.ラグラン謂う所の「文化英雄」であるーーが任意に設定したと考え、当為法則を自然法則から切り離しているため、宇宙論の変更はその倫理道徳にさしたる影響をもたらさないのである。

 ただし、朱子学者でなくとも儒者である以上、儒家経典との整合性は維持しなければならない。経書は聖人の著作とされるが、その時代性ゆえに「天動説」を前提として執筆されている。地動説を支持して天動説を否定する以上、当然「然らば則ち聖人は非ならんか」(p.33裏)という問いに答えねばならない。そして、ここで聖人を「非」とすることは、儒者には絶対に許されない。

 息軒は「道同じからざればなり。聖人は教を主とし、眾人の耳目する所に因りて言を立て、言旣に立ちて道寓(やど)る。西洋は理を主とし、理の在る所は、回僻に涉ぶと雖も、必ず之を究む」(p.33裏)と回答する。
 要するに、西洋人はどうでもいい事柄についても真理を突き詰めようとするが、東洋の聖人は研究よりも教育に重きをおくため、大衆にも理解できるよう、敢えて大衆の実感に即した「天動説」に立脚して説明しているに過ぎず、「地動説」のことは当然分かっていたのだ……と、言わば、開き直る。

 それを言い出したら、どんなことでも言い繕えるような気がするが、「聖人」の絶対性を守りつつ、天動説を否定しようと思えば、他に言いようがなかったのだろう。息軒は、最後に「我は寧ろ西說に從はん。是れも亦た君子己を捨てて人に從ふの義なり」といい、こだわりを捨てて西洋天文学を選ぶことを宣言する。

補注:若以理而已矣、我寧從西説。
 ここでは「若(なんぢ)は理を以てするのみ。我は寧(むし)ろ西説に從はん」と訓読したが、「若(も)し理を以てするのみなれば、我寧(いづく)んぞ西說に從はんや」とも訓読できる。(待考)

追記:
「若(も)し理を以てするのみなれば、我は寧(むし)ろ西説に從はん」と訓読した。

 息軒のような、公に認められた大儒が地動説を支持を公言した意味は、大きい。確かに西洋科学の優位性を認め、その導入を主張した儒者としては、すでに渡辺崋山や佐久間象山がいたけれども、投獄されて切腹に追い込まれたり、市中で暗殺されるような人生を送った儒者が言うのと、昌平黌儒官に任命され、明治天皇の侍講を打診され、著書に藩主たちが序文を寄せるような儒者が言うのでは、重みが違う。
 息軒〈地動説〉は、日本思想界が倫理道徳から自然科学を切り離したことを示すマイルストーンなのである。 

凡例

一、本稿は、安井息軒〈地動説〉の解題・原文・訓読・現代語訳ならびに余論である。
一、底本は、《息軒遺稿》(東京:安井千菊、1878年、1卷32頁表-34頁表)を用いる。
一、「原文」の字体は、フォントの許す限り正字体で統一する。底本の俗字・異体字は、正字体に改める。
一、「訓読」(書き下し文)は、底本に付された読点と返り点とに従う。
一、「意訳」(現代語訳)は、訓読(書き下し文)と対応するよう心がける。補足説明は〔 〕でくくって訳の一部として読めるようにし、かつ〔 〕部分を隠せば訓読(書き下し文)の直訳となるよう工夫する。
一、段落分けは、底本にはないため、訳者が文脈から判断して行う。段落の境界は /// で示す。
一、底本は読点(、)のみで句点(。)がないため、訳者が文脈から判断して、一部の読点を句点に改める。


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