安井息軒〈擬乞禁夷服疏〉02
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原文-02:元和建櫜、百事未暇。又執臣節以尊崇王室、是以恭遜謙挹、不敢制一代之禮。德至盛矣。然下率諸侯、以號令於天下、不能無一定之法。其制雖簡、其禮亦具。自朝覲・聘問・宴享之節、車馬・宮室・衣服之度、秩然不紊。守之三百年、雖彊藩豪主、不敢有少所變更。亦非幕朝一代之制邪。
訓読-02:元和建櫜するも、百事未だ暇あらず。又た臣節を執りて以て王室を尊崇し、是を以て恭遜謙挹して、敢へて一代の禮を制せず。德の至盛なり。
然かれども下は諸侯を率ゐて、以て天下に號令するに、一定の法無きこと能はず。其の制簡なりと雖も、其の禮も亦た具(つぶさ)なり。朝覲・聘問・宴享の節、車馬・宮室・衣服の度より、秩然として紊(みだ)れず。之を守ること三百年、彊藩の豪主と雖も、敢へて少しも變更する所有らず。亦た幕朝一代の制に非ざらんや。
意訳-02:〔徳川幕府が慶長20年(1615)「大坂夏之陣」で豊臣家を滅ぼしたことで、「応仁之乱」以来150年に及んだ戦国時代は終わりを告げ、「元和」への改元とともに天下泰平の世が到来しました。所謂る〕「元和偃武」(元和建櫜)が実現しましたが、様々な事案(百事)が山積みで安息する暇はありませんでした。また〔神君家康公は〕あくまで臣下としての節操(臣節)を守って皇室を尊崇し、そういうわけで〔幕府も朝廷に対して〕慎み深く謙遜した姿勢(恭遜謙挹)をとり、〔中国であれば新たな王朝は独自の礼制を定めて新秩序を打ち立てるのが習わしですが、徳川幕府は皇室の臣下という立場を崩さなかったので、既存の礼制に代えて〕新時代の礼制(禮)を制定しようとしませんでした。〔将軍家の「徳」は、〕まさに至盛の「德」であります。
しかしながら〔武家の棟梁たる征夷大将軍として、〕諸侯たちを統率して、天下に号令するには、一定の法度(法)がなければなりません。〔そこで、幕府もやむなく武家社会の決まりごととして「武家諸法度」を定めました。〕その制度は簡素ですが、礼制(禮)〔関わる規定も〕もつぶさに備わっていました。〔かくして、諸侯が江戸へ参勤して将軍に拝謁する〕「朝覲」・〔諸侯同士が他藩へ使節を送って友誼を深める〕「聘問」・〔酒宴を開いて客人を饗(もてな)す〕「宴享」の節度(節)から、〔家格に応じた〕乗り物(車馬)・居城(宮室)・衣服の節度(度)まで、秩序だって整然として乱れたところがありません。
〔武家が〕これを守ること300年、雄藩を治める豪腕の藩主(彊藩豪主)であっても、あえて変更しようとすることは少しもありませんでした。〔とすれば、これも〕また幕府〔が定めた〕当代の制度ではないでしょうか、いや、制度です。
余論-02:「武家諸法度」に対する評価
中国では、易姓革命によって樹立した新しい王朝は、前王朝の礼制を廃止して新たに礼制を定め、新秩序を構築した。江戸幕府は、戦乱の世を終わらせて天下泰平を実現したという点で、中国基準なら「王者」に他ならないのだが、あくまで皇室の臣下という立場を崩さず、新たに礼制を定めることはしなかった。
とはいえ、武士たちを統率するには、やはり一定のルールが必要で、幕府は武家社会のルールとして「武家諸法度」を制定した。これが、実質的に江戸時代の礼制として機能することになった。
◯
「武家諸法度」には「参勤交代」に関する規定がある。「参勤交代」とは、本段でいう「朝覲」で、本来は「参覲交代」と表記すべきだそうだが、これも礼制(禮)である以上、前段に「盪(ほしいまま)にして之を制する無くんば、必ず其の正を失ふ。聖人之を憂ふ有り、(略)、之に禮を制して、以て其の外を方(ただ)す」とあるように、諸侯の過度な贅沢を抑制するために「上限」を設けるために制定された。「武家諸法度」を見れば、
一、大名・小名在江戸交替相定ムル所ナリ。毎歳夏四月中、参覲致スベシ。従者ノ員数近来甚ダ多シ、且ハ国郡ノ費、且ハ人民ノ労ナリ。向後ソノ相応ヲ以テコレヲ減少スベシ。但シ上洛ノ節ハ、教令ニ任セ、公役ハ分限ニ随フベキ事。
とあって、最近は「参勤交代」のお供の人数が多くなって、人民の負担となっているから、適切な人数に減らすように指示している。
歴史教育では、”「参勤交代」には大名行列の規模が細かく定められており、この規定を遵守するために、諸藩の財政は逼迫していった。こうして諸藩を弱体化させて、幕府に反抗できない状態に追い込むのが、「参勤交代」の目的の一つであった”云々と教わるが、それは結果論であって、本来、大名行列の規模に関する規定は、諸藩の出費を抑えることを目的に定められたのである。
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