物理死と論理死
コンピュータの世界に
物理削除と論理削除という概念がある。
これを
物理死と論理死と読み替えると合点が行く。
物理削除というのは、データ自体を消すこと
論理削除というのは、データを消したことにすること
これを人の生死に置き換えてみる。
物理削除=物理死だとすると人が死ぬ=肉体がなくなること。
論理削除=論理死だとするとどうだろう。
プログラム的に言えば公的に戸籍から消すことと言えるのかもしれないけれど
ここでは論理死を”データ”の概念で観るのではなく”人の主観”で観るものとして捉えてみたい。
人の死を肉体の死を持って死とするのではなく
個々人それぞれに”〜とすること”、”〜である状態”が人の死だと自身で定義付けて自分の論理を持ってして死とするということで考えるとする。
例え目に見える肉体が目に見えなくなったとしても人の心の中に観念にまたは言葉として残ったりして受け継がれて行く。
そういった視点で見ると肉体(物理)の死が人の死とするにはどうしても無理があるのではないかと感じたからだ。
目に見えないその感じ、観念の中は手に取り出し目に見えるものとしては扱えないけれど確かに存在している。
そちら側で死を例えば捉えた時、例えば
不正を己に許す精神(己の論理)が人の死だとするのであれば
その人はそのまま善悪の基準をその位置に持つかもしれない。
またその論理のために自分の肉体(物理)の命を捧げることもあるかもしれない。
そういう意味では論理は物理をも越えるとも言える。
人の生死を何を持ってして観るかというのは自分に対する一つの問いかけであり
今を生き抜く我々の生の基盤を支えてくれるものにもなるかもしれない。
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