僕の原体験⓪ ~尊敬するのはオトン~
はじめに
オトンのことを振り返ってみようと思うのだけれども、オトンとのエピソードをできるだけ時系列に組み立てながら書いてみようと思う。必然的に僕も登場してきますが、そこはご愛嬌で。笑
つらつらとエピソードを書いた後に、尊敬すべきポイントをまとめることにしてみよう。
次男として爆誕
1981年2月27日。まだ夜明け前のAM4:42。
オカン曰く、2月後半はかなり極寒だったらしく、大阪市内でも水道管の破裂などが起こっていて、水道ポンプ卸売業を営む親父の会社(正確に言うとその当時はおじいちゃんの会社)は大忙しだったよう。
そんな水道管を破裂させるかの如く、僕はオカンのお腹から元気よく飛び出した。3245gでオギャーと叫び、この世に生を受けた。
もう完全に猿である。笑
生まれたてにして、この髪の毛のフサフサ具合。
ふたつ上の兄貴にも可愛がられ、すくすくと成長した(はず)。
※そんな兄貴との思い出は、また別の回でお伝えするとして。
一応、前回の記事でもオカンに触れると宣言したので、写真だけでも載せてみよう。笑
僕はこんなオトン、オカンの元に産まれた。
いつも休みの日は枚方パーク
小さい頃のオトンの印象は、正直あんまり覚えていない。笑
感情は爆発する時もあるけど、プロ野球をテレビで見ながら缶ビールを飲む。そんなごくごくありふれた父親だったと思う。
よく兄貴を叱っていたことだけは覚えている。
僕は兄貴が何をして怒られているのか?どうすれば許してもらえるのか?
などを、幼き頭でしっかりと学習していたのであろう。
兄貴よりはオトンに怒られた記憶があんまりない。
むしろ強烈に印象に残っているのは「枚方パーク」。その当時は、まさかV6の岡田くんが園長になるなんて想像もできなかったけれど。笑
アルバムを開く度に、ほぼ毎週行っていたんじゃないかという頻度で写真が出てくる。ゴレンジャーやキカイダーなどのヒーローショーも確かに記憶に残っている。
悪役が円形ホールの客席まで子どもを連れ去りにきて、僕は泣きながら檀上まで連れていかれたこともある。笑
怖がりだった僕は当時完成したレッドファルコン(ジェットコースター)に乗れず、いつもオカンと下で待っていた。
自分が家庭を持つようになって改めて思うが、休みの日はいわゆる家族サービスに精を出していたオトンだったように思う。
写真がとにかく多いのがウチの特徴
(俺が6歳くらいの時の写真、実家の前で記念撮影)
実家にある写真アルバムは、オトンとオカンが結婚してからスタートして現在進行形で継続しており、今はvol.70を超えている(はず)。
とにかく今のようにスマホがあるわけではないご時世で、よくもまぁこんなにもたくさん写真を撮影していたんだなーと思う。
※全然写真を整理しない今の自分をぶん殴ってやりたいくらい、実にマメなオトン。
ただ単に写真が好きだったのか、それとも家族の思い出を余すことなくカタチにしようと思っていたのか。
結果としては、振り返るツールが多い子どもとしては、非常に有り難いことこの上なしである。
夢を捨てて家業を継ぐ決意をしたオトン
オトンは学生時代から、絵を描くことが大好きだったようで大学は美術系の大学へ進学を志すも浪人、その後、上京して青山学院大学へ進学。
卒業後は、大手電子機器メーカー「オムロン」に就職し、熊本でサラリーマン生活をスタートさせた(と聞いている)。
(2004年頃、東京に遊びにいった時に青学の前で記念写真撮ってる僕。笑)
おじいちゃんが創業した水道ポンプ卸売業を営む廣瀬産業の後継ぎとして働き始めた後に、僕は生まれたので、サラリーマン時代の親父を知る由もなく、物心ついた時から既に専務として、おじいちゃんを支えて働いているという認識でいた。何をやっているのかあんまりよくわかっていなかったというのが正直なところ。
親父が初めて泣いたのを見た夜
(赤ちゃんの僕を抱っこしているのがおばあちゃん、そしてその横がおじいちゃん。親父にめちゃくちゃ似てる!ということは晩年の僕の顔はこうなる。笑)
親父が泣いたのを初めてみたのは、おばあちゃんが亡くなった時。
人目も憚らず、大人がワンワン泣いているのを見て、なんだか悲しくなって
つられて泣いてしまった。
そして2回目は、おじいちゃんが亡くなった時。
喪主を務め、火葬された後、骨だけになったおじいちゃんを見て
今まで張り詰めていた気が開放されたのか、ワンワン泣いていた。
後にも先にもオトンが泣いているのを見たのは、この2回。
やっぱり自分の親が亡くなる時は、想像を絶する感情になるのだろう。
普段は決して涙を見せない。
どちらかというとポーカーフェイスなおとんだったように思う。
親父の働く姿を見るようになったのは小学6年生
(小6の運動会で組体操で一番上にいるのが僕、チビ!)
おばあちゃんがガンで亡くなって、会社の上でおじいちゃんと同居をすることになったのが小学6年生の冬のこと。
男3兄弟の長男だったオトンが必然的に選ばれたかは定かではないが、引っ越しをするということでついに自分の部屋をGETできる喜びが溢れかえっていたことは鮮明に覚えている。
親父と同じく男3兄弟だった僕は、それまでのマンション生活では、オトンが子どもの勉強机が所狭しと3つ並んでいる部屋に布団を敷いて寝て、その隣の和室でオカン、兄貴、僕、そして弟の4人が川の字(字余り)で並んで寝ていたのである。
1人部屋が手に入る嬉しさと、これから始まる新しい生活に期待と不安を抱きながら、会社の上で生活する日々がスタートした。
そこからオトンが働く姿が、今までと違って生活の中で見えてくるようになった。
家を外出する時には、必ず1Fのオフィスを通っていく必要がある。今まで、「水道屋さん」という何とも漠然としたイメージでしかなかったオトンの仕事が徐々に可視化されていく日々。
事務のおばちゃんはいつもニコニコしていて優しく「いってらっしゃい!」と声をかけてくれる。そんな笑顔の奥のオフィスからいつも響き渡る電話の着信音と、オトンの声がそこにはあった。
「まいど」「おおきに」が響き渡るオフィス
「まいど!」「おおきに!」と声高らかに元気よく電話に出ているオトンが、すごく印象的だったのを覚えている。
水道ポンプ卸売業なので、水道工事をするわけではない。水道部品やポンプ、蛇口などの部品を仕入れて工事業者さんなどに販売/納品するという、言わば商社のようなものだったのだと大人になってからようやくオトンの会社の事業内容を理解することになる。笑
まだインターネットなどない時代。注文は電話とFAX。
有名ポンプ屋さんの特約代理店のポジションを確保し、そこの商品をメインに色々なメーカーの部品を取り揃え、迅速に見積を提出し、注文を取り、近いところは即配達をするという感じで商売を営んでいた。
子どもながらに、あの電話口の対応の心地良さは感じていた。
なにわのあきんどとでも言えばよいのだろうか。
親父にいつか聞いたことがあった。
「なんであんなに元気に電話でるん?」と。
「顔が見えへんねんから、声で感情を表すんは当たり前やろ」
確かそんなことを言ってくれた気がする。
今でもお客様の前で明確なスイッチを入れて接客できるのも
この電話応対を見ていたことが大きいのかもしれない。
怒られたのはオカンを「ババア!」と呼んだ時
中学2年くらいだっただろうか。
友達と銭湯に行くとか行かないとかでオカンと口論に。
その際に「うるさいわババア!」と捨て台詞を投げかけて、僕は階段を降り友達との集合場所へと行こうとした瞬間だった。
「ちょっと待てやー!!!!!!!!!!!!!」
「誰にババアって言うてんねんコラァ!!!!!」
と階段を爆速で駆け下りてきて、そのままの勢いで殴られた。笑
何回か怒られたことはあるけど、基本は僕が決めた選択肢について静止をされた記憶はない。
先生と呼ばれる職業に就けと言われた記憶
よくオトンに言われていたのがこの言葉。
「先生と呼ばれる職業につけ!」
学校の先生、お医者さん、弁護士etc。
きっとオトンは、自営業の良いところも悪いところも体感してきたから、きっと自分の子どもたちには、そんな苦労をせずに普通に就職してサラリーマンとして、そして「先生」と呼ばれる仕事をして欲しかったのかもしれない。
結果、3兄弟の中で先生になったのは兄貴だけ(お医者さん)。
※兄貴との話はまた第何回目でまとめて書くので割愛。
※一応、僕も弟も社会の教員免許は取得。教えは半分守ってる。笑
今、兄貴は救命救急医として某大学病院で勤務。
僕は自分で会社を作り9年目。
弟は大学卒業後10数年働いた会社から転職して、営業をしている。
実家の土地を売却、事業の縮小、そして今
(当時の実家の横に隣接していた倉庫3Fの皆の遊びスペース。よくここで卓球をしたりお酒を飲んだり合コン後に連れ込…笑)
一時は大阪府池田市にも支店を構え、隆盛を極めた廣瀬産業も、少しずつ時代の波には逆らえないようになってきていた。インターネットの台頭や色々な要因で、少しずつ事業は縮小していったのだと思う。
僕が結婚を決めた2011年頃、実家の土地を売却することが決まった。
※会社は道を挟んだ目の前のビルで、まだ絶賛営業中。水道ポンプのことなら廣瀬産業までご連絡を。笑
(取り壊し直前の一枚。with弟。)
実家の土地がなくなることは正直言ってショックだった。
もう俺に戻る場所がなくなってしまうのかという寂しさ満点だった。
この白い壁に最後に落書きをした。
「いつかこの場所を取り戻してやるぜ!」なんてことを書いた。
その気持ちは今でも変わっていない。
その証拠に僕の本籍地は、この場所のままにしておいた。
その理由は、再びいつの日かこの場所に戻ってくるため。
(何もなくなった時に撮影した1枚。絶対取り戻したい!)
子どもたちに家業を継いで欲しいと言わなかった理由
数年前くらいにオトンを誘い出して、弟と3人で近所のお好み焼き屋さんにごはんを食べにいくことがあった。
少し酒も入り、気分がよくなった僕はオトンに聞いてみた。
「なんで俺たちに継いで欲しいって言わへんの?」と。
そしたらこう返ってきた。
「俺はな、若い時、まだまだオムロンでバリバリ働きたかったけど、親父(おじいちゃん)に継げ!と言われたから廣瀬産業に入ってん。だから自分の子どもたちには自分の好きなこと、やりたいことをやって欲しかったから俺の口からは絶対に継げと言いたくなかった。」
確かこんなことを言ってくれたと思う。
オトンの優しさ、父としての格好良さ。
なんだかそんなことを再確認できた最高の夜だった。
最後に
結局、尊敬してるポイントなんて山ほどありすぎて
なかなか言語化が難しいということに気がついた。
敢えて言うならば
・子どもの生き方、選択を尊重する
・自分のエゴを押し付けない
・社長として見せてくれた背中
・事業を継続していく覚悟を教えてくれた
・そして何より家族を大切にする
こんなところだろうか。
そんなオトンも実は昨年から病気が続き、今も本調子ではない。
そして今はこんな状況だから、会いにいくことも出来ない。
オトンもオカンも必ずいつかは死ぬ。
それは逃れようのないこと。
だから生きてる間に、まだまだ親孝行したいし
しんどいのに長生きしてくれとはよう言わんけども
少しでも元気に、長く生きて欲しいなと思う。
これからも僕はオトンに教えてもらった通り
自分の人生は自分に切り開いていくことにするわ。
まだまだ孫ともたくさん遊んでもらわんとあかんし。
コロナが落ち着いたら家族全員で旅行に行こう。
そして全員で満面の笑みで最高の集合写真を撮ろうぜ。
俺を産んでくれてありがとう。
そしてまだまだこれからもよろしくやで。
心配かけてばかりの次男坊より
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