10年(+α)の軌跡
10周年という節目でもない限り今までを振り返ることなんてないだろうと思い、何かの形に残そうと、このnoteを書くことにしました。少し長くなりますがお付き合いください!(年度ごとに振り返るから覚悟してください!笑)
社名の由来
2011年8月8日、本町にある公証役場へ取締役の三阪と会計士の小澤先生と3人で向かい、自らの手で会社を設立しました。会社設立って何ともあっけない感じで終わるんだなと拍子抜けしたのを今でも鮮明に覚えています。
自分たちで作った株式会社。はじまりの一歩は、ちゃんと自分の足で歩き出したくて。小澤先生に同行してもらったのがつい昨日のことのよう。
株式会社BHF(ビーエイチエフ)
社名の由来は何ですか?と今でもたまに聞かれるのですが、まぁ何とも浅はかにつけてしまったために、答える時にいつも半笑いで説明をしています。
社名の由来は、僕と三阪、そしてその当時、FOR Uという屋号をつけて一緒に頑張っていこうという、もう一人の男がいました。真田です。
僕、三阪、真田。
3人の共通点はただひとつ。高校の同級生だったということ。当時、会社名に完全に無頓着だった僕たちは、母校の名前をもじって名付けたのです。
通っていたのは大阪府立大手前高等学校。大手前(おおてまえ)と呼びます。大阪城の大手門の目の前にある高校です。
大手前を英語にすると、Big-Hand-Front。その頭文字を取るという安易な方法で会社名を決めたのでした。
今思えばもう少しちゃんと考えて名前をつければよかったと思う後悔もあるけれど、当時を振り返れば「社会を変えたい!」とかいう大それた野望もありませんでした。二次会の幹事を頼まれることが増え、これって仕事になるかも!という成り行きでの起業だったので、当然の流れといえば当然。
ただ、FOR Uという屋号が最初に決まっていて、いずれは色々な事業を展開していきたいという思いから、屋号名ではない会社名をつける必要があり、株式会社BHFが誕生したのでした。
WEBサイトからの初めてのお客様(2010)
(※ニート同然の姿で働く三阪。よくここで編集しながら朝まで寝ていました。シェアしていたクリップオンリレーションズさん、ノンバーバルさんには迷惑をよくかけてました!すんません!)
2010年7月、僕は前職であるプラスゲートを退社したと同時に、翌月から阿波座にあるビル「ACDC」にてオフィスを借りることに。まだ定期的な売上なんてあるわけもないのに、オフィスシェアリングとはいえ、毎月55,000円の家賃を払うことを決めたのには理由がありました。
当時大阪には同業他社は既にいくつかあって、そこを調べていくうちにちゃんとしたオフィスを構えている会社が少ないことを突き止めました。(自宅の住所だったり、バーチャルオフィスだったり。そりゃ固定費は安いほうが良いに決まっている!)
これから結婚式の二次会幹事をお願いしようと思い、お客さんが問い合わせをした際に、バーチャルオフィスよりはちゃんとオフィスがあることの安心感はきっと武器になる。そう信じて、毎月の固定出費より信頼感を取ったのです。
2010年1月にFOR Uという屋号を定めて活動を開始したものの、WEBサイトからの集客なんてあるわけもなく、最初は季節に1回くらいのペースで友人もしくは紹介で依頼があったくらい。
そのペースだと2人が食っていくには程遠いので、まずはWEBサイトからの集客ができるようにとちゃんとしたホームページを作り、SNSへの発信を継続し、周りの皆様からの紹介が増えるようにすることに注力をしました。
もちろんそれだけでは生きていけないので、最初は前職の先輩がくれた仕事(肥後橋にある焼き鳥屋さんの立ち上げサポート)で食いつなぎながら、三阪は夕方からアルバイトへ行って生きるお金を稼ぐ。そんな生活で起業人生は始まりました。
オフィスを借りてまもなく、WEBサイトから初めて問い合わせがありました。開催希望地は和歌山県。
阿波座のオフィスまで来ていただき、三阪と2人で新規接客。同業他社にも話を聞きに行ってることを伝えられ、初めての新規でいきなりの相見積。何が正解かもわからないまま、見積を作り、会場を探し、メールを送り返事を待ちました。
結果「FOR Uでお願いします!」とご連絡をいただきました。この二人(たくちゃんとさっちゃん)は言わば、繋がりのない初めてのお客様となったのです。
(WEBサイトのレポートにも、実はまだちゃんと掲載されています。リニューアル前の記事だから、せっかくのサムネイル顔が出てない。汗)
たくちゃん、さっちゃんとはお疲れ様会もしたし、その後も僕がOSAKA盛り上げ隊で乾杯プロジェクトをやる時も遊びにきてくれたり。最近は会えてなくて寂しいけど。
このパーティーを皮切りに、次の春はありがたいことに毎月数件のパーティーの受注ができて、その勢いを持って法人化へと舵を切るのでした。
株式会社BHF設立記念パーティー(2011)
冒頭にも書いた2011年8月8日に会社を無事設立しました。何故8月8日にしたかというと、漢字で書くと八月八日で末広がりだから。これまた安易。笑
そして一丁前に、法人設立記念パーティーを天満橋にあるカフェで開催しました。古くからの友人、家族、この仕事をしてから知り合った先輩、取引先様などなど。100名弱の皆様に見守られての船出。
その日に流したエンドロールムービーを発見してしまったので、ここで公開してしまいましょう。恥ずかしい!クオリティ低め。笑
三阪もアルバイトを辞め、徐々に毎週くらいのペースで現場が入るようになったのもこの頃。
(ピンクのTシャツ!そして今よりだいぶ細い?!)
こんな感じでいつも深夜まで、あーでもないこーでもないと2人で言い合いながら仕事をしていました。
ブライダル産業新聞にも掲載してもらったのは良い思い出。この頃は、こういう業界紙に載るだけでも無性に嬉しかった!ただ年間100組受注できる見込みって書いてるけど、実際は約50組でした。笑
こういう数字って盛りがちということもこの頃に学びました。
1日2現場の日も、そして自分自身の結婚(2012)
2012年になると、さらにありがたいことに問い合わせの数は順調に増え、1日に2現場重なる日も出てきました。
それまでは廣瀬、三阪はほぼ1セットで現場に出向いていたのですが、三阪も単独で現場に行くように。この頃はまだ司会者兼プランナーというのがFOR Uの売りでもあったので、色々な人に現場を助けてもらいながら働いてました。
中村(タカミックス)や戸塚(あさちゃん)もチラホラこの頃から登場し始めます。この頃は現場が終わってからだいたい飲みに行って、その日のバイト代を使うっていう身も蓋もない行動を彼女たちは取っていました。笑
自分自身としても4月に結婚。挙式、披露宴、二次会と日航ホテル大阪にて行いました。二次会は呼びたい人を呼びまくったら結果的にゲストは227人。A~Zテーブルという驚異の26卓での二次会。このパーティーの司会をやり切った三阪の司会力は確実に伸びたはず。(ちなみにこの10年、歴代最多人数パーティーの記録はまだ破られていません。出席してくれた皆さんに感謝!)
(初めての自分たちだけのオフィス。前のオフィスから徒歩30秒の場所。)
この年は前年より増えて約70組ほどのパーティーをプロデュース。事業として、ちゃんと軌道に乗ったと言えるようになったのはこの1年かも。シェアオフィスから卒業して自分たちだけの事務所になったのもこの年。IKEAで揃えた家具たちが懐かしい。もう二度と組み立てたくない。笑
初めての借入、雇用、ドレスショップOPEN(2013)
3年目。会社も少しはこれで軌道に乗っていくかと思っていたのに、何故か大勝負に出ることになりました。笑
FOR Uのお客様は当時、ドレスレンタルをご希望した場合、提携しているドレスショップに送客をしていたんです。〇万円均一!とか価格は書いてるのに、実際に成約した金額を確認するとそれ以上になっていたり。「小物は含まれていません!」とか、「この棚は料金アップです!」とか。なんかお客様に優しくない衣装店が多いなーと感じていたんです。
そんな時に、2012年からFOR Uにアルバイトとして来てくれていた中村が「大輔さん、ドレスショップやりましょうよ!私、店長やります!」と言ってゴリ押ししてきました。(詳細はもう覚えてません。ニュアンス違ったらごめんなさい。笑)ようやく自分の給与も少し上げることができ、落ち着くかと思っていたところでこの動きなわけです。後から聞いたらドレスショップでバイトしたことあります!って言ってたけど、よくよく聞いたら親御様の衣装レンタル担当だったらしいから、彼女の止まらない勢いはこの頃から健在でした。笑
ダメ元で事業計画書を書き、融資の申込をしたらなんとお金を借りれることになっちゃいました。笑
国金から、そして信用金庫から合わせて1,300万円を借入することに。もうそこから怒涛の展開です。オフィス移転、ドレスショップの内装、仕入衣装の選定、そして社員を迎えるために社会保険加入と、その数ヶ月はまさに激動でした。(もちろん毎週末の二次会現場もやってましたからね!)
そして2013年7月1日。結婚式二次会、1.5次会専門ドレスショップとして「BLANC CHOUETTE(ブランシュエット)」がOPEN。今までなんだかなーと思っていた部分を解消する料金形態。これはいけるやろーと中村とともに根拠のない自信だけが湧いていました。
(まだ改装前。盟友スライムデザイン吉田くんに内装をお願いしました。)
(素敵に仕上げてくれて感謝。友達と仕事をするのもいいもんだと思えた瞬間。)
OPENしたは良いものの、社員としてドレスショップ店長の中村と、カメラ未経験だけどカメラ大好きな森口(もっさん)を2名同時に雇用したもんだから毎月の給与が発生するし、オフィス移転により家賃増。地獄の社会保険料の引き落とし。さらにはバタバタOPENで満足に営業が出来ていなかったこともあり、会社のお金がどんどん減っていくことに。今までの中で一番通帳残高を気にしたのもこの頃。なんとか秋に忙しくなってくれて、このピンチは脱しました。
そしてこの年の5月、僕たちは初めてのアウトドアウエディングをロッジ舞洲でプロデュースしたのです。
「アウトドアで結婚式がやりたいんですが、どこに頼めばよいかわからず…お話聞いていただけませんか?」
こんなメッセージがWEBサイトから届きました。やってやれないことはないということで、二人三脚で最高のパーティーを作り上げました。このパーティーレポートをWEBサイトに掲載したことで、次の年から続々とアウトドアウエディングの依頼が来るように。人生、何が起きるかわかんないもんです。この問い合わせがなかったらウチのアウトドアウエディングは始まっていませんでした。岡本夫妻に感謝。
さらに社員増、アウトドアWも人気に(2014)
ドレスショップもありがたいことに忙しくなってきたこともあり、知り合いの紹介以外で初めて社員を雇用することに。この写真で僕の左側にいてる天野(あまのっち)。
よくよく考えると、今までのスタッフは皆何かしらの繋がりがあって、そのご縁で一緒に働くようになっていました。
三阪…高校の同級生、バンドメンバー
中村…地元の後輩(弟の友達)
森口…盟友ノンバーバルのべーやんの地元の先輩
戸塚…ウチの嫁の学生時代のアルバイト仲間
中川…2010年にFOR Uで二次会をしたお店のプランナーさん
だったもんねー。ご縁ってホント大切。
さてそんなメンバーに天野っちが加わり、ドレスショップも順調に提携店を増やし、さらにはSNSからの流入も増え、何かとバタバタな日々。
2013年に初めてプロデュースしたアウトドアウエディングが、この年に爆発。なんとヘリコプターまで飛ばして結婚式をやっちゃいましたよ。前例がないことでもお願いすれば何とかなることを学びました。無茶ブリをして僕のスキルをあげてくれた長島夫妻に感謝。
中川も自身の結婚式を経て、少しずつプランナーとして手伝ってくれるようになったのもこの頃。ママさんプランナー陣にプランナーは任せ、俺と三阪は司会に専念するというスタイルが徐々にでき始めたのがこの年だったような気がします。
ウチの方針は一人複数ポジション制だったので、もっさんもまずはプランナーとしてのスキルを磨きながら、徐々にカメラマンとしても経験を積んでいくようになりました。(右は司会のイチローくん!今は東北楽天ゴールデンイーグルスが運営するラジオ局「Rakuten.FM TOHOKU」で野球中継の実況を担当)
少しずつ現場に行かない(担当を持たない)日も増えてきたのがこの年だったかな。でもアウトドアウエディングは全て自分で担当をして、ほぼ毎週現場があった時はさすがに休みなしでほぼ毎日深夜まで仕事してたな…。
Studio LDKとしてスタジオをOPEN(2015)
この頃からもっさんはFOR Uのメインカメラマンとしてバリバリに活躍。プランナーの卒業ということで、最後に担当したのはフリーカメラマンの雄、出田憲司こと、けんちゃんのアウトドアウエディングでした。
この規模のアウトドアウエディングはもうこれから先もないと思うというくらいの規模感でした。ゲスト150名、パーティー時間6時間強!笑
プランナーを卒業し、カメラマンとして本格的に活動すべく「Studio LDK」を11月22日にOPENさせました。これによって弊社はブライダルという事業領域において、
FOR U…パーティーのプロデュース
BLANC CHOUETTE…レンタルドレス/タキシードや小物の販売
Studio LDK…結婚式の撮影、家族撮影など
という3本の柱で、会社を運営していくスタイルになりました。
会社の売上は順調に伸びていたものの、固定費の上昇につき利益を出すことに苦戦し始めたのもこの頃。ええ時はめっちゃ利益出るけど、アカン時の赤字の額が徐々に大きくなってきていて、なんか新しい事業にトライしていかなあかんなーと模索をし始めました。
スタッフも増え、廣瀬は徐々に裏方へ(2016)
プロデュース、衣装レンタル、撮影で1年間に合計400組ほどのお客様と関わるようになってきたこの年。ドレスショップもアルバイトスタッフを雇用するようになり、会社になんだか人がたくさんになってきました。笑
そして僕はブライダル事業から少しずつ離れていくために、今まではママさんプランナーの皆に助けてもらいながら担当を割り振っていたところから、社員としてプランナーを常駐させる方向に舵を切りました。
そうですウチの今のエース、石川の入社です。
(この写真の石川、めちゃくちゃギャルみたいで驚き。笑)
マザーズでプランナーをしていた石川から、FB経由で「FOR Uで働きたいです」と連絡を受け、とりあえず会うことに。働きたいという強い意志に負けて(笑)、プランナーとして採用することを決めたのでした。
俺と年齢は1つしか変わらんし、色々な職場を転々としていたので正直最初は大丈夫かコイツはと思っていました。笑(その思いは本人にもバレていました。ごめんなさい。。。)
今ではアウトドアウエディングのほとんどを彼女が担当してくれているし、今のFOR Uがあるのは彼女のおかげといっても過言ではありません。
ここから徐々に司会、プランナーの分業制という今のスタイルに少しずつ形を変えていきました。それは同時に、FOR Uといえば廣瀬や三阪だったところからの脱却への第一歩でもありました。FOR Uというブランドが少しずつ形になってきたんです。
(天野っちラストの日。みんなで焼肉食べにいきました。)
出会いあれば別れあり。これまで関わってくれた人が退職していないというのが自慢だった我が社にも、サヨウナラが訪れます。天野っちとのお別れです。初めてのサヨウナラは切なく、ほろ苦い思い出。今は天野っちもママになって子育てに奮闘する様をSNSで見て、実はニヤニヤしているのは内緒の話。
(人生初のビールかけ!数百本のビールが一瞬でなくなった。笑)
このビールかけを提案してくれた木村夫妻は、思い出に残るパーティーやったなー。この動画を見れば誰もが驚くはず!
この10年+αで、パーティー中にゲストに写真を一緒に撮ってくださいとお願いしたのは最初で最後。(最初の頃はゲストの方に一緒に写真撮ってください!とか言われていたよ!最近はおじさんになったから全く言われないけど。悲)
今は亡き星野仙一さんとの2ショット。野球をしていた身としては、どうしてもこの写真だけは撮りたかったんです。当日はまさかのリングボーイならぬリングおじさんとして活躍してくださいました。木村夫妻もこのお願いを快諾してくれました。感謝。
毎年恒例のスタッフ、カメラマンやヘアメイクさんなど一緒にウエディングを作っている皆で集まっての忘年会。この年くらいからお店を貸し切る人数になっていたなー。ほんでお客様としては初の忘年会まで参加した木村夫妻。笑
創業地へ戻り、原点回帰。そして模索の日々(2017)
ドレスショップのスタッフも増え、ドレスショップのバックヤード兼FOR Uのオフィスとして稼働をしていたのですが、手狭感がハンパなくなってきて。この年にドレスショップ要員で新たに社員で山崎(ザキヤマ)も加わってくれて。
丁度そのタイミングで、創業の場所(オフィスシェアリングをしていた場所)から引っ越しをすることになった株式会社ノンバーバルから後を引き継ぎ、FOR Uのオフィスを独立させることにしました。
2010年夏に創業した地に、再び戻ってきたFOR U。売上もこの期には初の大台(億)を突破し、周りからは順風満帆に見えていたかもしれません。
しかしブライダル業界は皆様ご存知の通り、将来の見通しは明るくなかったので、それを肌で感じていた僕は、B to B事業を少しずつ稼働させていくことになります。
そのひとつがノンバーバルとの初の協業となった、トラオム株式会社さんの社内成果発表会「トラオムクーレスト」のプロデュースでした。
ブライダルのノウハウを活かした法人パーティーのプロデュースも仕事にしていけると確信したこのクーレスト。コロナになるまでは毎年担当させていただきました。(またコロナが明けたら盛大にやりたい!)
少しずつブライダルの需要が落ち始めているのを感じながらも、その他の仕事を取っていくことで、売上を埋め合わせて急場をしのいでいる。まさにそんな1年でした。
ウエディングドレスの委託販売「Blanc Marche(ブランマルシェ)」を立ち上げてみたけど、大失敗。笑
アウトドアウエディングはこの年が最盛期。2日連続現場があった時は、さすがに死ぬかもと思いました。笑
そして2013年から5年間、働いてくれたもっさんとのサヨウナラもありました。もっさんはその後、カメラの修業をすると言ってハワイへ武者修行に行き、今でもFOR Uのパーティーのカメラマンとして撮影をお願いしています。
サヨウナラは辛いんだけど、今まで一度も引き留めたことがなくて。人生一度きり。後悔のないように生きて欲しいから、選んだ道は尊重する。そんなこんなで出会いと別れは加速していったのがこの年だったなー。
恒例の忘年会は、ママさんたちも多かったのでこの年は2部制で開催。昼はチビたちもいっぱいでワイワイ。全員で変顔!
夜はいつものはれ天で貸切でさらにワイワイ。この年くらいが一番会社に関わってくれる人が多かったのかも。幸せなことだ。そして2年連続で忘年会に参加している木村さん(右から3人目)。笑
盟友との別れ、そして2事業の撤退(2018)
創業以来ずっと共に過ごしてきた三阪とのお別れ。出社最後の日に、創業前にサヨウナラをした真田が二次会の相談に来るというなんとも不思議な巡り合わせ。貴重な3ショット。最初からこの3人で会社を始めていたら、今頃どうなってたやろうなー。
初めて新卒採用にも挑戦(石倉が入社、写真右端)してみましたが、結果的には1年経たないうちにサヨウナラすることになり、もう新卒採用はしないと心に決めてみたり。笑
堀江にあるイタリアンレストラン「mothers(マザーズ)」のウエディング業務を受託して、ともに盛り上げていくことになったのもこの年。
(社内についに男が自分だけになった奇跡の1枚。女子高か!)
そしてこの年の一番の大きな決断はなんといっても2事業の同時撤退。BLANC CHOUETTEとStudio LDKの閉店です。
スタジオは森口が辞めてから、お客様からの依頼があればフリーカメラマンにお願いする形で運営をしていましたが売上も今ひとつ伸びず。ドレスショップも競合他店が増えてきたこと、そして二次会需要が少しずつ落ち込んできたこともあって、売上に伸び悩んでいました。
ブライダル業界の売上って、季節の影響をモロに受けるんです。1,2月の赤字はまぁしゃーない。3月から夏までにその赤字を取り返すぞー!的な。
忘れもしないその3月。FOR Uはたくさんの現場が動いて好調だったにも関わらず、会社全体で見ると赤字の状態に陥っていました。その数字が判明した時、僕は決断をしました。
そして4月上旬。店長の中村を呼び出し、年内での閉店の意思を固めたことを伝えました。悔しさいっぱいで目の前で泣く彼女を前に、僕は申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
ドレスショップの撤退によって、上記の写真にいてたスタッフとも半分くらい一気にサヨウナラとなりました。
会社を継続させていく上では、出会いと別れは付き物。頭ではわかっていても、サヨウナラのその日は寂しい気持ちと、少しはこれで楽になるかとホッとした気持ちが入り混じっていた気がします。
今でもスタッフ同士は仲良くしてるみたいで、そんな話を聞くと、ウチにいたことによって生まれた関係性があるんだなと思ってニヤニヤします。
この年に立ち上げていた「Blanc Mimi(ブランミミ)」は中村が引き継いで、今は大人気のブランドに成長していってます。
辞めるという大きな決断。でもこの決断があるから今があるんだなーと振り返りながらしみじみ。
THE PLACEさんとも仲良くさせていただき、今ではmothersさん同様にウエディング業務を受託させていただいてます。感謝。
ものすごい台風が大阪を襲ってきたこの年。台風でものすごい被害が出たロッジ舞洲でしたが、翌週には無事アウトドアウエディングも開催できました。
辞めたことと、新たに始めたことが大きく入り混じる。そんな1年でした。
プロデュースに特化し、再び新卒採用に挑戦(2019)
僅かの期間しかいなかった志幸。笑
そしてこの年、同じ轍を踏まないと心に誓っていた新卒採用を再び実施し、岩井(写真左)が入社しました。
この頃からWEBサイト経由で、新卒の子たちから採用希望の連絡が来るように。長年やってきたことが少しずつ認知されてきているのが嬉しかったのと同時に、教育体制が全く整っていない零細企業が未来ある若者を預かっても良いものかという不安との葛藤。
そして石倉が半年で辞める(今はワーホリでオーストラリアで頑張っているという報告は聞いてます!ただミッションとして課した外人彼氏ができましたという報告は届いてません。笑)という決断に至った経緯もあったので、新卒採用に対して戸惑いがあったことも事実で。
初回の面接。僕はスウェットパンツで現れて「履歴書の写真より実物のほうがええな!」と暴言を吐いたことは今でもネタにされます。笑
教育体制もままならないのですぐ現場に放り込み、あれよあれよという間に新規接客に出て、成約を勝ち取り、今では立派なプランナーとして活躍してくれています。
石の上にも3年。もっともっと成長して僕の仕事をさらに奪ってください。笑
(パインブルックリンでのパーティー後の1枚。植月山映像!)
オリジナルウエディングというカテゴリーのパーティーも徐々に増え。もはやパーティーをプロデュースしてるのか遊んでいるのかわからないくらい楽しみながら司会をしている僕。笑
(令和初日に行ったアウトドアウエディング。雨が降る中で準備をして、結果的にはやりたかった運動会もできて一安心だった1日。)
(特に意味はないけどトミーの二次会後の写真。載せてみた。笑)
プロデュース事業に特化(2部門の撤退)したけれど、売上は昨年からほぼ横ばいくらいは叩き出せたんです。マザーズのウエディングを1年通してしっかりと盛り上げれたことが大きな要因。
FOR Uとしてのプロデュースは年々確実に減ってきていたので、その補填をレストランのプランナー業務を受託することでなんとかカバーをしていたというのが正直なところ。
ウエディング以外の売上の柱を作らないとと頭ではわかっていても、今まで営業をほぼしてこなかったこともあってか、なかなか実行に移せていなかったのも事実。B to Bのお仕事もリピートいただけるものがいくつかあったために、そこまで積極的に行動できていなかったんです。
ウエディングはこのままじゃダメだとわかっているんだけど、目先の売上はなんやかんやで確保できてしまっていたから、現実から目を背けて逃げていた1年だったなー。笑
この時、コロナが来ることを予兆できていたらもっと必死に営業していただろうなと今さらながらに思います。
突然訪れたコロナショック、創業初の大赤字(2020)
2月から新しい仲間が加わりました。仲谷です。元々FOR Uでお付き合いのあったお店でプランナーをしていました。キッカケを作ってくれたのは元社員の中村。
ママさんプランナーの皆も、子どもが小学生になったりで生活環境が変わったり。数年後のことを考えると、社員としてプランナーが必要になってくるなと思い、迎え入れることになりました。
持ち前の明るさで、お客様との絶妙な距離感はピカイチ。コロナ明けはフルスロットルで活躍してくれるでしょう!
そんな仲谷が入社した月末に襲ってきたのが、皆さんご存知のコロナウィルスですあの2月末の2週間学校休校宣言から事態は一変。それ以降、ご依頼をいただいている新郎新婦様からの相談の嵐。
延期をするべきか、延期をしたとしてもいつにすればよいのか。もうキャンセルしてしまったほうが良いのではないか。一組一組のお客様と、私たちプランナーは真剣に悩み、寄り添い、答えのない問題に立ち向かうことになりました。
そして4月7日の緊急事態宣言後、ついには休業することになり8月末までのパーティーは全て延期もしくはキャンセルとなってしまいました。
(緊急事態宣言前最後のパーティー。今や日常となっているマスクで遊ぶ僕。)
パーティーのない間に、クラファンにも挑戦しました。ご支援いただいた皆様、本当にありがとうございました。感謝。
コロナのせい(おかげ)で、このクラファンを実施することになり、リモートワークを実施したおかげでサロンの移転を決意しました。
ブライダルサロンとしてだけじゃない、写真も撮影できる、珈琲も飲める、夜はたまにバー営業もできる。これから結婚式をする人、結婚式をした人。友人。仲間。皆が気軽に訪れることが出来て「ただいま」と言える。そんな場所を作る。
クラファンが100%達成しそうだった6月中旬。ボクは上記の思いを胸に抱き、前職の同僚で不動産仲介をしているパイセンにすぐ連絡を取り、すぐさま物件探しに奔走し始めました。
いくつかの物件を内覧に行くもピンと来ず。何件目かに行った湊町リバープレイス裏にある物件の印象がかなりGOODで。一棟貸しが基本だけど、2Fを借りると屋上のテラスもセットで借りれるという稀な物件で、ここなら色々とイメージでしてるものが具現化できるなと狙いを定めることに。
(盟友吉田くんに一緒に内覧してもらいイメージを膨らませていた時の図面。この場所は美容室になってますね今!)
条件面は希望より少し高かったので、家賃交渉を有利に進めれるようになるまで少し間を置いて様子を見ることに。それから2ヶ月くらい経ったある日のこと。なんばからの帰り道にその物件の前を通ってみたら「FOR RENT」の看板がなくなっていることに気付き、急いで確認してもらったところ、どうやら他の人から一棟で申込が入ったようでした。
「せっかくここまでイメージをしていたのに…」
「また一から物件を探さないといけないのか…」
ふりだしに戻る感が強すぎて、その日は結構落ち込んでいました。そして翌日朝、ボクの携帯に予備校時代からの友人、ユウウ君から1通のLINEが届いたのです。
「ラフアウト中津の管理運営業務の受託先を探しているから、BHFで手を挙げてみたら?」
そこから話はトントン拍子に進み、めでたく年明けより正式に契約することに。話から約1ヶ月半での驚きの展開とスピード感。
「人生はタイミング」だということ、そして今回もまた今までのご縁からで繋がった仕事だということ。
創業してから今までで一番お金を借りたし、今までで一番赤字だった2020年。先行きの見えない不安から春には10円ハゲできたし、億近い借金をしたことで、なんだかリアル桃鉄みたいな人生になってきたし。
9月以降、本当に少しずつだけどウエディングも現場は戻ってきました。しかし新規の問合せはまだ様子見の人がほとんどという状況。
コワーキングスペースの運営管理という未知なる分野の仕事を開拓できたという意味では、コロナで大きくシフトチェンジができた1年でもありました。
中津へ移転、そして11年目の挑戦(2021)
年明けより中津へ拠点を移し、ラフアウト中津の管理運営をしつつ、ブライダルのプロデュースをする日々が始まりました。
まだまだブライダルの現場は戻ってきたというには、ほど遠い状況。ラフアウト中津でもバー営業を企てていますが、それも相次ぐ緊急事態宣言やまん延防止等重点措置で延期を余儀なくされています。
そんな逆風の中、去年もプランナー希望で新卒採用の応募が数名からありました。正直今は仕事も少ない状態だし、人員が不足しているという状況ではありません。
面接で「数年後にはウチはブライダルを辞めて、違う仕事をしている可能性がありますが、それでも良いですか?」と問いました。それで自ら辞退を申し出た子もいた中、一番真面目でまっすぐな丸岡が入社することになりました。
今はまだアシスタントプランナーという身だし、新規はもちろんのこと、現場の数が少ないのでなかなかOJTをする機会もなく、申し訳ない気持ちでいっぱい。
2年後には彼女が先頭バッターを打てるくらいの戦力になってもらわないと困るので、これからの伸びしろに期待している新人です。
もうすぐ10期目が幕を下ろします。2期連続の赤字は初めてで、悔しい気持ちはないと言えば噓になります。でもなんだか毎日が楽しいのも事実で。
これからどんなワクワクが待っているのだろうか。ブライダルが復活を遂げた時に、どんな世の中になるのだろうか。これからの10年はどうなっていくのだろうか。
11年目がスタートします。まだまだ明るい状況ではありませんが、きっと今のメンバーであればこのピンチを乗り越えていけるだろうと信じています。
11年目の挑戦はまた、このnoteでもご報告していくので是非みなさまブックマークとかハートを押すとか様々なアクションをお願いします!
12,900字は長いね!書くの疲れた!笑
グッズ是非ともご購入を!
お時間です。
ピース。