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岩野泡鳴の「現代将来の小説的発想を一新すべき僕の描写論」をいまさら読んで
前々から気になっていた、岩野泡鳴の「現代将来の小説的発想を一新すべき僕の描写論」をやっと読んだ。読んでみたらすぐ読み終わるものを、気になりはじめてから何年か越しでやっと読んだ。僕はなんでもこういう調子なので、何をやっても亀のようにしか進まない。漱石は芥川らに「牛のように」やるようにアドバイスしていたから、僕もせめて牛のようだったらよかったんだけど、亀なんだからどうしようもない。
岩野泡鳴のこのエッセイがどうして気になっていたかというと、何かものすごく珍しい主張が書いてあるのかもしれない、と思ったからなんだけど、結論から言うと、いまとなってはぜんぜん珍しいわけでもなんでもない主張が書いてあった。当時は、泡鳴が自負しているくらいちゃんと珍しい主張だったのかなぁ?※1
泡鳴の主張は、真面目な小説は(泡鳴が言うところの)「内部的写実主義=一元的描写」で書かれるべきだ、ということに尽きている。
二十一世紀のいま、小説を読んでいる人は、泡鳴の主張を誤解することは、あんまりないような気がする。主張に賛同したり共感したりするかはさておき、何を言っているか分からないということはないと思う。
現代だったら、適当な「小説の書き方」本を開いて、一人称小説についての説明を読んだら、そこに岩野泡鳴の「描写論」に書いてあるようなことが書いてあるだろうと思う。
つまり、ある小説の構想があって、そこに甲乙丙丁といった複数の人物が登場する場合、小説を構想している段階では甲乙丙丁の誰の心の中のことでも考えてみたらいいけど、いざ小説を書く段になって、甲の視点で描写を始めたら、その小説には甲の視点からの描写以外のものを含めてはいけない。ということ。もし、乙の視点のことも書きたかったら、それはもう別の小説を書くべきだ。とも言う。
現代の凡庸な「小説の書き方」本には、一人称小説を書く時に気をつけるべきこととして、まさにいまうえで書いたようなことが書いてあると思う。「視点がブレてはいけません」的なことが。
だとすると、泡鳴の主張と凡庸な「小説の書き方本」の主張は、同じだということになるんだろうか。部分的にはまったく同じ事を言っていながら、総体としてはまったく違う主張をしているというような言説というのはいくらでもあって、これはまさにそれだと思う。
凡庸な小説の書き方本は、「一人称小説を書く時には視点がブレないようにしましょう」という、ただの小説の作法のことを言っているに過ぎないんだけど、泡鳴もまったく同じ事を言っていながら、本当に主張したいことはそういう小説の作法の話じゃない。
泡鳴はもっと激しく、「真面目な小説は一元的描写でなければならない」とまで言う。こういうのはもう小説の作法の話ではなくて、岩野泡鳴の小説観の話になってくる。泡鳴は小説というものをどういうものだと考えていたか、という話に。
泡鳴は、小説の書き方には一元的描写という方法もある、ということを言ったんじゃなくて、一元的描写以外の小説の書き方は駄目だとまで言う。少なくとも「真面目な小説であるなら」一元的描写であるべきだと主張する。だから、同時代の自然主義作家たちが多元的描写をしてしまっている(視点がブレている)ことを具体的に例を挙げて、ここが駄目、そこが駄目と、どんどん突っ込んでいく。正宗白鳥とか田山花袋とか有島武郎とか広津和郞とか徳田秋声とかが、やり玉に挙げられる。
岩野泡鳴が言うところの一元的描写がどういうことか、ということを理解するのは、まったく難しくない。でも、どうしてそこまで激しく「一元的描写でなければならない」とまで言うのかを理解するのは、難しい。
一応このエッセイの中で、なぜ一元的描写でなければならないのか、ということは書いてある。それをちょっと僕の言葉で解説してみると、次のような話になる。
現実に一人の人間というのは、つまり作者である「私」というのは、ただ一つの視点しか持っていない。つまり「私」から見た世界のことしか分からない。このことは、あらゆる人間に与えられた条件であって、誰もそのことから逃れられない。
であるにも関わらず、小説の描写において、甲乙丙丁という人物が出て来た時に、甲の視点についても書く、乙の視点についても書く、丙の視点についても書くというようなやり方は、泡鳴的には現実に背いているために不誠実だと感じられる。
現実に与えられている条件の外に出たそういう描写は、もうファンタジーだというわけ。泡鳴の言葉だと、そういうのは「概念」でしかないし、描写じゃなくて「説明」になってしまっている、という話。
この説明も、まあそれほど難しくはないかと思う。岩野泡鳴がどういうことにこだわっていたかというのは、分からないことはない。でも、どんなに意を尽くしても分からないのは、どうして泡鳴はこのことにそんなに激しくこだわったのかということで、この先はもう理屈の問題じゃなくて趣味・好みの問題なんじゃないか、という気がする。
それで小説とか文学っていうのは、たいてい理屈の問題というより、趣味・好みの問題になってくるものだと思う。というか、本質的に「好み」の問題でしかないんじゃないか、くらいにまで思う。
岩野泡鳴の好みっていうのは、だいぶマイナーだったんだろうと思う。泡鳴自身の書いたものを信じると、ほとんどの自然主義作家たちが泡鳴のようには書かなかったらしいから。
僕は泡鳴のマイナーさと狭隘さ(小説観の狭隘さ)を、文学者としては好ましいなって思ってしまう。面白そうなことはなんでもやるという小説家よりも、面白そうでもそういうことは自分の信念としてやりたくないというようなことを頑なに持っている、現実に隣りに居たら面倒くさそうなタイプの人の方が、「文学者としては」僕は多分好きになるだろうと思う。
※1 泡鳴が自負している……
「一元描写では僕が世界中の開祖であって、これに忠告を与え得る資格のあるものはまだ世界中にもない」