廻る車輪(問題)を成就(完了)する智慧
まずはじめに
上記の画像の「法輪」は、仏教の教義を示す物として八方向に教えを広める車輪形の法具として具現化され、「卍」と共に仏教のシンボルとして信仰されたとしていますが
当時のお釈迦様の弟子たちは、「輪廻転生」という問題を「車輪」というシンボルにたとえて、その「車輪」を止める智慧を説いた象徴として「法輪」であるとヨーガの先生から教えてもらったことがあります。
「アカルマ(無為)により輪廻転生から解放」についての解説は、保守本流のヨーガの智慧ということではないかもしれません。“A Course In Miracles”の学習者としての一面を解説に加味していることをご考慮くださいませ。
車輪のように廻る問題
同じような問題が、繰り返し、何度も何度も人生において生じているのは、私だけでなく、私がファシリテーターをしていた問題解決のための個人セッションやグループワークなどでもたびたび言われていたことから、このことは誰しも起きることだと理解しています。
たとえば、ある女性の子供時代の父親との悲しい出来事が成人してからの男性上司や配偶者との間でもいつも同じパターンとして問題が繰り返すとします。心理学的なアプローチから問題を引き起こす過去の悲しい出来事を再体験して、当時において抑圧した感情を解放し、しっかりと間違った当時の解釈を改め再決断したとします。
しばらくはとても平和な時期を送ることができるのですが、ある時、急に、落とし穴に落ちたように古い問題が再び廻ることがあり、「そんなはずはない、あの問題は解決したはずなのに」と驚愕することがあったりします。
■小さな反応の積み重ねが車輪を動かす
なぜ、すでに解決したはずの問題が再び勃発するのか?ということですが…
それは、とても些細な状況や人との関係性においての「反応」の積み重ねによって、自ら墓穴を掘っているのかもしれません。前回の『反応する習慣を変える意志の力』で学んだ「聖音アウンを上に摩擦木として」のように、状況や人に対しての「反応」が同意して成就されたことになっておらず、少しでも拒否したことが積み重なって、習慣化された行為が性格となり運命となっているのではないでしょうか?
一度廻り始めた運命の車輪は、クルクルと似たような顔をした問題としてあれこれと、その問題を成就させるまで学校の宿題のように世界から提出されることになります。
■小さな反応の積み重ねが車輪を止める
「逆もまた真なり」と言いますが、「聖音アウンを上に摩擦木として」という智慧を用いて、状況や人に対しての「反応」を同意して成就されたことを、コツコツと継続して積み重ねることで、習慣化された行為が性格となり運命となっていくのかもしれません。
自らの反応を燃焼系にする
■目に映る世界は過去に反応した結果ならば
マザーテレサさんの言葉である「思考に気をつけなさい、それは言葉になるから…」はまず思考から始まるわけですが、すなわち、間違った思考から言葉へその言葉から行為へその行為から性格へ最終的に運命となるのですから、目に映った自らが生み出した結果に対して、「それはないだろう」とか「そんなはずはない」として「反応」し続けていたとしたら、当初の間違った思考に「同意」していることにならないだろうか?
変な言い方になりますが、その間違った思考は死んでも死にきれないことになっていないでしょうか?その過去に死んだ思考はいまだに成就できずに、つまり、浮かばれずに、何度も何度も化けて(違う形の問題として)幽霊のように出現しているのかもしれません。
その間違った思考は、自分でよくよく調べてみるとわかると思いますが、状況に合わない間違った欲望であるので、すでに死んだ思考として間違った願望を成就させることで、再び浮かび上がることはなくなるわけです。
よろしければ、たびたび繰り返される問題について思い起こして、自分がどのような反応をしているのか?なぜ、そのような反応となってしまっているのかについて調べてみてください。一回限りではなかなか当初の欲望までたどり着けないかもしれませんが、辛抱強く調べれば何か発見するかもしれません。
間違った願望である思考を「聖音アウンを上に摩擦木として」という智慧の炎で燃やしきることで、もう化けては来ないのです。
■食べ物を燃焼しきることで病気にならない?
ヨーガに比べるとアーユルヴェーダは、不勉強だと言わざるを得ないのですが、元WHOアーユルヴェーダの顧問医であるビーマ・バット博士からアビヤンガというオイルマッサージを直接に習った経緯から言えることは
ごく簡単に言うと、病気は、食べ物の未消化がアーマという毒素になって生じるとアーユルヴェーダでは考えられているので、ここでも、食べ物を燃焼する消化力が健康に重要であると問われていることになります。ヨーガとアーユルヴェーダの智慧は根本において同じ哲学をみることができます!
アカルマ(無為)により輪廻転生から解放
■賢者でさえも迷うカルマ(行為)とアカルマ(無為)について
ここでの解説は、一般的なものとはかなり違うものであることは承知の上で解説してみます。
ごく簡単に言うならば、問題となる運命の車輪を動かす行為をカルマとし、逆に、問題となる運命の車輪を止める行為をアカルマとします。ややこしい言い方をすると、カルマという車輪を回す行為ではなく、カルマという車輪を回さないという行為をしたんだけどカルマにはならない何しもなかった行為がアカルマであるということです。実際は行為として行っていても何もしなかった行為がアカルマだということです。
違う言い方をするならば、間違った思考を「反応」として結果的に成就させなかった行為がカルマで、間違った思考を「反応」として結果的に成就させた行為がアカルマとなります。
上記に引用した『バガヴァッド・ギーター』によれば、「反応」のすべてがアカルマになるならば、もう車輪を回すような間違った思考の影も形もなく、すべてが成就されているので、生きながらも人生という輪廻転生から解放されると言えます。
最後に
なんか書き始めてみると、自分でも驚くほどに、壮大な問題である「輪廻転生」にまで発展してしまいましたが、そこまで望まなくても、人生に起きえる問題という車輪を止めるための智慧としてご活用くだされば幸いです。