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貴方の人生における「その仮説の実証」はやすらぎをもたらすものですか?
まずはじめに
前回は、ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッドのヤージナヴァルキァ師の思想となる【これではない、これではない】として、つまり、「ネイティ・ネイティ・ブラーフマン」として、「真我(ブラーフマン)」ではないとの「否定の道」を説くジャナカ王への教説をご紹介しました。
そこで、「真我が知覚する世界」と「諸々の欲望に支配されている私たちが知覚する世界」は、まったく異なることについて少し触れました。
今回は、「知覚」=「解釈」ということに注目してみたいと思います。といいますのは、どのように「知覚」するのかでどのような「行為」をするのか※もしくはしないのかに関わっていきますし、その「知覚」や「行為」はどのような印象を心に刻むのかに関わっていきますし、その残存印象は未来へのカルマを生じさせることになるからとなります。
※簡単に補足しますと、暗闇の小道で踏んだ縄ヒモを、蛇だと知覚すればあわててその場から逃げ出しますし、正しくヒモを踏んだと知覚すると落ち着いてそのまま歩き続ける、ということとなります。
ネイティ・ネイティ・マーヤ
■ネイティ・ネイティ・ブラーフマンの反対
もしも、ヤージナヴァルキァ師の教説が正しいのならば、私たちはその反対を実証実験していることになります。つまり、【これではない、これではない】として「絶対者ブラーフマン」ではないものを否定して、「諸々の欲望に支配されながらもそれぞれの欲望を満たすことで平安が得られる」ことを信じて、なにがしかの行為に興じている、と言わざるを得ないことになります。
実証実験であるならば、前提として、「仮説」があることとなります。この場合の「仮説」は、万有とは『真我を知覚するものにあらず』諸々の欲望を満たすもの(対象物)となっているので、自らの内を真我と観ることはなく、知覚する外部対象から生じる行為はすべて欲望を満たすことに終始することとなります。
ヴェーダーンタ哲学において、「絶対者ブラーフマン」とは永遠なるリアリティ(現実)であると考えられています。したがって、「自分の内に真我を観て、万有を真我と観る」というのは、ごく自然で正常な知覚(解釈)としています。
また、ヴェーダーンタ哲学において、「絶対者ブラーフマン」という現実ではないものを「マーヤ」という幻想であるとしています。先ほどの暗闇での縄ヒモと蛇の喩えのように蛇だとする知覚(解釈)は幻想だと言えます。
ということは、私たちは、「ネイティ・ネイティ・ブラーフマン」ではなく「ネイティ・ネイティ・マーヤ」として、【これではない、これではない】と「絶対者ブラーフマン」を否定し、自ら妄想する幻想を強化しながらも「間違った知覚」に基づく解釈を心に印象づけて行為というカルマを巡回させている言えるのです。
■マーヤを作り出すアーディ(無智さ)
なぜ、幻想を知覚しそのまま盲信して諸々の欲望に支配されてしまうのか、と言いますと、ヴェーダーンタ哲学では、あっさりと無智であるからとしています。
シャンカラ師が輪廻転生こそが克服すべき病であるとしてその病を生み出す無智さを消し去らなければならない、ということを「ヨーガにおいての診断・原因・健康状態・治療法とは何か?」について書きましたのでご参照ください。
無智さとは、「万有という対象は、行為によって、諸々の欲望を満たすことができる」とする仮説に基づく実証実験そのものであると言えるかもしれません。しかし、この実証実験は仮説そのものに間違いがあるので、完全に成功することはありません。←このことに反論があることは承知しています。
実証実験となる自らの人生を正直に時間をかけて内省するならば、成功していることもあれば失敗していることもあるのではないでしょうか?
ヴェーダーンタ哲学が提唱する仮説は、もしも実証実験するならば、完全なる成功をもたらすものであるとしています。
なぜならば、「絶対者ブラーフマン」という永遠なる現実は、幻想世界においての諸々の欲望を満たす以上のこと、もしくは、はるかに超越する「やすらぎ」そのものだからとなります。
この実証実験には忍耐が自然なこと
「ヨーガは体と心を識別し心が霊を自認しながら生活を営む技術」でも触れましたように、「体は善い意味でも悪い意味でも欲で作られています(欲に反応するように作られている)が、三大欲求として「睡眠欲」、「食欲」、「性欲」があります」ので、まったくそれらの欲望を無視することができません。
それらの欲望に対して、支配されないこともしくは暴走させないことが大切となります。
この実証実験を遂行し続けることでの大切なことは、幻想だと言われているこの時間の中で起こるすべてのものごとの究極の解釈(仮説)に対して、確信していることです。
すでに確信しているのならば、今、目にしている結果も、これから起こるものも、何一つ恐れを引き起こすことがあり得なくなることでより確信を深められます。
つまり、確信を抱いていればいるほどに結果について、つまり、実証実験の成功を待つだけの余裕があり、しかも、心配せずに待つことができると言えます。
信頼を抱く者たちにとって、これらの忍耐は自然なことなのかもしれません。
それまでには、仮説をたてて実証実験を繰り返し、実験を考察しまた新たな仮説をたてて実証実験を繰り返しながら、最終的には、究極の仮説すなわち解釈にたどり着き、そして、確信に至り自然な忍耐へと移行していくのでしょう。
最後に
この世界においての解釈は、世界という幻想に対する仮説がどのようなものであるのかによって見え方、つまり、知覚が異なっていきます。一番上の画像が「アヒル」なのか「ウサギ」なのかという知覚の違いではありません…
私たちの誰もが知覚によって行為という反応が制限されますし、その知覚が正しいものでない場合は、間違った方向に導かれますし、究極的には、ヴェーダーンタ哲学が言うところの病である「輪廻転生」を繰り返すこととなります。
一度、自らの仮説がどのようなものなのかについて熟考する時間をできれば長く与えて、もしも、その仮説での実証実験が望んだ結果にならないようならば、仮説の再決断と新たな仮説による長期に渡る実証実験へと挑んでいただければと思います。