すべての道は仏教に通ず【#008 善意ってありがたい?】
先日何年かぶりに、ある自然食品の店に足を運んだ。懐かしい店主が健在だった。以前は足しげく通っていたお店であったが近場に引っ越しをしてからというもの、なかなか来店の機会がなかった。
レジを済まそうとして久しぶりに店主と対面した時、ある言葉をかけられた。それは以前お店に行くたびにかけられていた言葉と同じだった。ミドリムシを使った毛生えサプリメントのおすすめである。
勘の良い読者はもうすでにお気付きだろうが、私の頭頂部は生まれたてのひよこのようなふさふさ加減なのである。「いやぁ、わたし髪の毛の事は全然気にしてないんで、、、」と、これまでも何度となく繰り返していた言葉を投げつけた。
それでも店主はひるまない。「東大で開発された薬ですよ。私も使用してるから、よく効くサプリだって事は保証しますよ」というような趣旨の話がなされた。これもすでに十回は聞いた話である。
確かにその店主のザビエル時代から顔見知りである私にとって、その薬の効果がどれだけ凄いものかはよく理解していた。くまモンを彷彿とさせる、熊本県生まれのぽっちゃり店主は、心底、善意から私の髪の毛のことを気にしてくれていた。善意って本当にありがたい、と同時に大変迷惑なものであると思った。
ところで、、、悪質な宗教が勧誘するときのお決まりの手法として、5人のサクラに同じことを言わせるという方法がある。異なる日時に「あなた最近顔色悪くない?」と言わせる古典的なやり方だ。
1人の人に言われたくらいなら何とも思わないが、日にちを変えて場所を変えて、5人の人から顔色が悪いと言われると、普通の人なら心が折れる。自分は調子悪いのだなと思い込んでしまう。人間の心はそれくらいもろい。
それと同じで、同じ店主からだけれども、5回にわたり、ミドリムシ教に勧誘されると、私の頭頂はそんなに重症なのかと不安になる。でもそれもこれもその店主の善意からなるものであり、ありがたく受け取るしか手はないのである。
この善意というものは、なかなか厄介なものである。病気で仕事を休む際、同僚にその症状を話したことがある。別に相談したわけでもないのに、なぜかアドヴァイスが返ってくる。そういう場合大体において、ろくな答えは返ってこない。
自分の経験談、あるいは本当にその人の知り合いなのか怪しい「友人」の成功談や失敗談等を持ち出してくる。全く状況が違うにも関わらず、今回の私の病気について「あーだ、こーだ」と関連づけようとする。一生懸命な割に、その経験談はこちらの役に立たない。これも善意から起こる悲劇であろう。
でも、これらはすべて善意から来るものだから、それに腹を立てるべきでないのだと悟るようになった。どんな時も辛い気持ちを抑えて、ありがたく受け取っておこうと考え直した。そう思えない時もあるけれど。。。
ホント、善意というものは気をつけなきゃいけないのだなぁと思った。自分も同じことをしていないか心配になった。
『ジャータカ』には次のように説かれている。
「幸せは自分で作る。不幸せも自分で作る。幸せも不幸せも、まったく他人の仕業ではない。」
人が言うことなすことは、全てが気になるし、人から何か余計なことを言われると無性に腹が立つ。これは誰しもがそう感じることだから、そう思う自分を責める必要はない。
『ジャータカ』は、言わずと知れたブッダの前世物語である。「幸せは自分で作る」かぁ、いいこと言うけれど、なかなか難しい。やはり仏教って、どこまで行っても「自分を知る」営みなのだなぁと感じざるを得ない。
仏教は、他の力強い宗教と違って、強い神が助けてくれることがない。どこまでいっても自分次第。そういう意味で大変ニヒルな宗教と言える。冷たい宗教だと誤解されるかもしれない。だって自分でどうにかしなければならないのだから。でもそんな宗教の方が私には合っている。どちらかというと自分で何とかしたいから。「幸せも不幸せも他人の仕業ではない」のだから。
あっ、そうそう。冒頭のミドリムシの話に戻るが、人の善意はありがたく受け止めようと思う。とかくこの世は人づきあいが大変だ。あっさり、さっぱりと生きたいのだが、どの場面にも人間関係が邪魔をしてうまくいかない。
宗教の勧誘などにも気をつけたい。神や仏とのあっさりとした1対1の信仰関係があったらいいのに、、、なぜか「くまモン店主」みたいな人が世の中にはいっぱいいるんですよね。(笑)