組織ファシリテーション試論③|組織開発は「みんなのもの」になり得るのか?
ここに書いていることは極めて試論であり私論です。特定の組織の見解ではありませんので、ご了承ください🙇
前回の振り返り
前回は、私の課題感である「組織開発とは誰のものか?」をとっかかりにしながら、以下をゆるゆると考えてきました。
組織開発の出発点に多くの場合「不信」(あいつが悪い、○○が悪い)があるのではないか?
その「不信」が「正しい見方」として残り続けることがあるのでは?
そうすると組織開発はいつまでも「みんなのもの」にならないのでは?
そもそも組織開発とは何か?
ちなみに、ここまで書いてきて今更ですが笑、「組織開発」の定義や歴史はとてもではないがここでカバーしきれるものではないので、詳しくは他に譲ります(CULTIBASEをご参照ください)。
組織開発を「組織をworkさせるための意図的な働きかけ」とするならば、組織開発はやはり、いつまでも「特定の誰か」ものにとどめておくのではなく「みんなのもの」にしなければいけない、と言えます。
つまり起点は、「誰かの課題感」でありながらも、「誰かの課題感」をどこかで手放す、あるいは共有し、「みんなのもの」にしていかなければいけないのではないでしょうか?
組織開発を「みんなのものにする」とは
しかし、私がさらに問いたいのは、少し意地悪な見方ですが、組織開発を「みんなのもの」にしなくてはいけないのはなぜなのか?ということを、きちんと「みんな」に説明できるのか?ということです。
そもそも組織開発に対して直接的な動機を持つのは、始まりの段階では「起点の誰か」であって、そのほかの人は単に「巻き込まれている」状態であるといえるのではないでしょうか。
組織開発の目的を達成するのなら、組織開発を「みんなのもの」にしなければいけない、というのはなんとなくわかります。しかし、無条件に「巻き込まれる」のは、自分自身に置き換えても不快感があります。
なぜなら「自分にとっての必要性」が理解できない状態では、単に誰かが何か言っている、という状態だし、なんとなれば「自分に対し不信感情が向けられている状態」ということを過敏に感じるからです。
組織開発を本当に「みんなのもの」にするには、どこかで、それぞれの人たちにとっての組織開発に対する正当性を持たせなくてはいけない、と感じるのです。
その正当性とは、言い換えるなら「組織開発に参加するメリット」であり、「あなたにとって組織開発が必要な理由」を提示することです。
「組織変革」と「正当性の提示」は両立できるのか
そのとき問題になるのが「起点となる不信感」ではないでしょうか。
例えば、起点となっているのが経営者であり、「従業員に対する不信」がある場合。
具体的に言うと「社員が動かない」とか「うちの社員は終わってる」とか「○○(競合や外資など)と比べて○○の力が圧倒的に足りない」といった発言に表れるような不信感情が根底にある場合。
組織開発の起点となっている経営者が、起点となっているその「不信感情」に自覚的にならないままでは、従業員に対し組織開発に対する正当性を示すことはできないのではないでしょうか。
しかし一方で。
経営者は自分が舵取りをする組織の未来を描き、導かなければいけません。そのために必要な「変革」として「組織開発」を位置づける場合、起点となる「従業員に対する不信感情」の行き先は、「変革についてこられない社員はやめてもらって構わない」という言説です。
その判断や意思決定は、ドラスティックな組織変革が求められるフェーズにおいてはあながち間違っているとは言い切れません。
そのとき、組織開発において従業員を巻き込む、ということが、経営者(あるいは組織変革の当事者であるレイヤー層)にとって、単に「目的に対するHOW」になってしまいがちである、ことが、私にとって引っかかるのです。
「巻き込み」は本質なのか、手段なのか
先程の記事では、このように続いています。
組織開発を「ヒューマンプロセスへの働きかけ」とする以上、組織開発の起点となる動機を持つ側が、組織開発を「みんなのもの」にしていく流れは、必須であると言えます。
しかし、その巻き込みを単に「変革のための手段」としてだけ位置づけたとき、そもそもその目的が達成されなくなる、ということになってしまうのではないでしょうか。
私自身、組織開発プロジェクトに関わるとき、こういった「単純な答えが出せない地点」にたどり着くことはよくあります。そこは
組織のヒエラルキー構造としての「経営者」の視点と「従業員」の視点との拮抗
人間心理の機微への理解
自身の組織・人間観
など、様々なものが交差しているという感覚を受けます。
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