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「奇跡の人」はいったい誰なのか

さて、前回からの続きです。

ヘレン・ケラーのお話で、
『「奇跡の人」はいったい誰なのか』ということでしたね。

でも、よくよく考えると、実は「奇跡の人」は、サリヴァンだけでもないんです。
サリヴァンが家庭教師を始めるきっかけになったグラハム・ベルだってそうですし、ベルがろうあ者教育に関心を持ったのは耳が聞こえないお母さんがいたからですから、ベルのお母さんも巡り巡っててヘレンの功績につながっています。もし彼女が健常者だったら、サリヴァンはヘレンと出会えなかったでしょう。
それだけではありません。
ヘレンの母に希望を与えた、ヘレンと同じハンディキャップを抱えていたローラ・ブリッジマン(中略)はヘレンより半世紀も前の人ですが、先行事例として彼女の存在があったからこそ、ヘレンは教育を受けることができたのです。
先駆者ともいえるブリッジマンは(中略)障がい者教育という発想すらない時代でしたから、家族に疎まれていたんです。
しかし一人だけ、そんな彼女に優しく接する男性がいました。彼女の家で雇われていた知的障がいのある男性です。名前がエイサ・テニーであるということ以外はほとんど記録が残っていないこの男性が、ブリッジマンに簡単な手話を教え、ブリッジマンは外界とコミニケーションをとれることを知ったのです。
一説では、テニーはネイティブアメリカンから彼ら独自の手話を教わり、それをブリッジマンに伝えたともいわれています。もしその通りなら、テニーに手話を教えた無名のネイティブアメリカンも、奇跡を起こした一人と言えるでしょう。
(中略)
テニーやテニーに手話を教えたネイティブアメリカンにも、偉業を成し遂げた自覚はなかったでしょう。彼らはただ生きていただけです。
しかし、そういう人々の「存在」が複雑な連鎖反応を生み、ヘレン・ケラーという奇跡につながったんです。

『世界史を俯瞰して、思い込みから自分を解放する 歴史思考』131ページ

言われてみると当たり前なのですが、ものすごくハッとしたんです。

きちんと伝記を読めばそうではないのかもしれないのですが、奇跡の人、偉人を取り上げる話は、その人がどれだけ偉業を成し遂げたか、どれだけ工夫し、努力をしたか、という話がメインのように思っています。偉人にフォーカスを当てたときに、その周りの人の奇跡、周りの人や出来事とのつながりに、どれだけ目を向けられていただろうか?

縁、つまり、すべてがつながっているんだ、ということが、ついついうっかり、抜け落ちてしまうのです。

ふと、鬼丸さんが、自立と孤立は違う、とよくおっしゃっているのを思い出します。

言葉の定義を見てみると

孤立:他から離れて一つだけ立っていること。また、仲間がいなく一人ぼっちなこと。他の助けがなくただ一人でいること。
自立:他への従属から離れてひとりだちすること。

(いずれもコトバンクの定義)

そして、ある人はこうおっしゃいます。

自立とは多くの人に依存することである。
「助けてください」と言えたとき、人は自立している。

『生きる技法』(‎青灯社)

自立の中には、自ら、そして自ず(おのず)から立つことはそうなのですが、ときに、他者の力を借りることは決して否定していないのでしょう。

鬼丸さんは、こう続けます。

ほんとうの意味での「自立」とは、
不完全な人間同士が、互いに支えあいながら、それぞれの幸せを応援(支援)していくこと

「つながり」という視点で歴史を振り返ったときに、違うものが見えてくるのではないでしょうか。

どう思われますか?

(文責:森本)


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