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私と私の中の言葉の話

頭の中で、思い耽る、という言葉をよくピックアップする。耽るという単語には熱中するという意味があるらしい。

自分の人生を懐かしんだとき、昼と夜とで別の人間なのではないかと思うくらいの差がある。昼は行動、夜は思考。

幼い頃から夜はいつも思い耽っていた。

8歳までひとりっ子だった。ひとり遊びは得意で、幼少期は家の中で文字を見つけてはそれを見つめ、児童書、図鑑、辞典、新聞の折込み広告、果ては電話帳まで、理解は追いつかないまま文字を追いかけていた。漢字の成り立ち、美しい文字の形が好きだった。

夜になると、頭の中を文字が埋め尽くす。それはとりとめのない言葉の羅列だったり、自分の経験と記憶の映像・画像を文字に変換させたりしていて、何らかの形でアウトプットしない限り整理が追い付かずBADに入ってしまう。

妹が生まれた頃から、自分の思考を外に出せる言葉にすることをはじめた。手っ取り早く日記。歳を重ねるごとにツールはかわり、紙媒体から個人HP、ブログ、mixi、Twitterなど、その時々で気に入ったものを手に取り、形にさせた。文章にすることがデトックス効果を生み出していて、これが青春時代の私の心を健康にも不健康にもした。

私は話し下手であり、説明も要領を得ないので苦手、基本的にテンポの早いコミュニケーションが不得意である。しかし文章は、胸の内をじっくり認められるという点では私にとって有意義なツールなのだ。それでも、万能ではない。

頭の中に、常に言葉が浮かんでいる。私の話はそれらを組み合わせて出来ているので、脈絡のない、とりとめのない、煩雑なものである場合が多い。すぐに話飛ぶしね。

本当はゆっくり考えながら話したい。伝えたいことがたくさん浮かんできて、どれから伝えたらいいのかわからなくなったり、場合によっては忖度しすぎてしまったりする。そうしてもじもじしていると、何を考えてるのか解らない、何を言いたいのか解らない、もういいとあちらから打ち切られる。

一日は24時間と決まっている。皆に与えられた平等な機会だけど、上手に使うのって難しい。例えばおおよそ人間が5分で決められること、私は何倍もかかってしまう。

考え過ぎ(その通り)、病んでる(それは浅はか)、よく突き付けられる言葉は他にもある。その切っ先に私は今までの人生ずっと悩まされてきた。親、友人、先生、上司、同僚、出会う人それぞれが、思いがけないタイミングで言葉という剣を私に向けてくる。その度私は息を呑んで、思考する時間を捨て、忖度をして、今手に取ろうとは思っていない言葉で一応立ち向かうのだ。



うまくいかないと、自分の中の言葉で自分を突き刺している。息の根を止めて、夜を終わらせる。

久しぶりに朝になるまで思い耽っていた。昼は行動の時間だから何も考えずにいられる。夜が憂鬱なようで待ち遠しい、この相反する気持ちの謎を解くまで、どれくらいの時間と言葉を費やすのか、

私は思考する。


#雑記 #日記 #日常

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