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ノルマン=コンクエスト

9世紀ノルマン人たちが大陸に渡ることが多くなり、当初、交易が目的だった来航は次第に略奪、侵攻に変わっていきます。この状態を危惧した西フランク王は、臣下に下ることを条件に911年ノルマン人の首領ロロにノルマンディー公国を与えます。その後、ノルマンディ公はイングランドを征服します。

これまでの話


7王国の終焉

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409年ローマ軍が当時ブリタニアと呼ばれていたイングランドから引き上げた後、ゲルマン民族によって大小多くの国が建てられました。そのうち強い国が小さな国を吸収し、7つの王国が残りました。ノーサンブリア王国、マーシア王国、イースト・アングリア王国、エセックス王国、ウェセックス王国、ケント王国、サセックス王国が7つの王国です。これらの王国はヘプターキー、Heptarchyと呼ばれていました。
Heptarchyはもとはギリシア語でheptは7を、archyが国を意味します。

デーン人襲来とイングランドの再統一

9世紀になると地球は暖かくなり、スカンジナビア半島のノルマン人たちが海を渡って欧州大陸に渡り、辿り着いた沿岸で略奪を行うようになります。イングランドには、北方系ゲルマン人のデーン人が侵略を行っていました。それは次第にエスカレートし、7王国は次第に浸食されていきます。

アルフレッド大王 123RF lisenced

この頃、ブリテン島ではウェセックス王国が力を持ち、初代ウェセックス国王エグバードの時代には7王国の中のリーダー的存在になっていました。6代目アルフレッド大王はデーン人を撃退し、キリスト教と文芸を復興させ、アルフレッド大王の孫であるアゼルスタンはブリテン島のイングランド化を推し進め、927年イングランドを再統一します。

北海帝国
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ところが10世紀に入ると、デーン人は再びブリテン島に迫り、デーンゲルドと呼ばれる立ち退き料をもらうことで引き上げ、これを繰り返していました。デーン人の国スウェーデン国王クヌートはデーンゲルドだけでは満足できず、遂に1016年イングランドを征服し、ウェセックス王朝に代わってイングランド王となってしまいます。クヌートはさらにデンマークとノルウェーもその支配下に置き、3王国からなる北海帝国を築き上げます。

イングランド王位を巡る3つ巴の戦い

左:ギョーム2世 中:ゴドウィン 右:ハーラル3世
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飛ぶ鳥落とす北海帝国でしたが、1035年クヌートが亡くなると急速に勢力を失っていきます。クヌートの治世にイングランドからフランスに亡命していたウェセックス朝王子のエドワードはクヌートの息子ハーディクヌートと条約を結び、イングランドの共同統治を始めます。
ところがこのその2年後、ハーディクヌートが亡くなったため、エドワードは戦わずしてイングランド国王(エドワード懺悔王)となります。

エドワード懺悔王は幼少の頃からフランスのノルマンディー公国に亡命していたため、母国のイングランドよりノルマンディーに住むノルマン人たちとの結びつきが強く、即位してから多くのノルマン人たちを呼び寄せ重用しました。このことがそれまでイングランドを支えていた、伯と呼ばれる貴族たちの反感を買い、特に大貴族ウェセックス伯ゴドウィンはエドワード懺悔王と対立するようになっていました。

エドワード懺悔王

1066年、エドワード懺悔王が世継ぎを残さずにこの世を去ると、王位を巡ってフランスからノルマンディ公ギョーム2世、イングランドからはウェセックス伯ハロルド・ゴドウィン、ノルウェーからハーラル3世が名乗りを上げ、3つ巴の戦いが始まります。

エドワード懺悔王が亡くなると、ハロルド・ゴドウィンが賢人会議で承認されイングランド王として即位します。ハロルドの祖父はサセックス王の家臣で、功を建てることによってウェセックス伯に取り立てられていました。ハロルドが伯を継ぐ頃には並びなきイングランドの大貴族として権勢を誇っていました。大貴族とはいえ、アルフレッド大王やアゼルスタンの血統を継いでいないハロルドが王位につけた理由は、エドワード懺悔王のノルマン人びいきで不利益を被っていたアングロ・サクソン古来の貴族たちの支持があったからです。

ギョーム2世(ウィリアム1世)
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ギョーム2世(後のウィリアム1世)がイングランド王位を主張する理由はエドワード懺悔王にありました。エドワード懺悔王は幼少の頃、デーン人に国を追われ、ノルマンディ公国に亡命していました。ノルマンディ公とエドワードの結びつきは強く、エドワードは生前、ギョームに時期イングランド国王を約束していたのです。

ハーラル3世
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一方、ハーラル3世の主張はこうでした。先々代のイングランド王ハーディクヌーズとノルウェー王との間で結ばれた王位を決める協定があり、それはどちらかの王が先に死んだ場合、残った王が両国の王を兼ねるというものでした。ゆえにエドワード懺悔王が亡くなった今、ノルウェー国王の自分がイングランド王位を兼ねる権利があるというわけです。

スタンフォードの戦い・ブリッジの戦い

スタンフォード・ブリッジの戦い ペーテル・アルボ・ニコライ作
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ハロルド・ゴドウィンには弟がいました。名をトスティ・ゴドウィンといい、彼はノーザンブリアを治めていました。1065年ノーザンブリアでトスティに対する反乱が起こますが、大貴族が力を持つことを危険視していたエドワード懺悔王はここぞとばかりに反乱側を支持し、トスティを国外に追いやります。ハロルドはトスティの実の兄でしたが、国王と対立する者は何であれ許すわけにいかず、彼が即位した後もこの対立は続きます。

ハーラル3世の幕引き

時期を同じくしてノルウェー王ハーラル3世がハロルドから王位を奪うべく、大軍を率いてヨークを攻撃します。この時、フランドルに亡命していたトスティはハーラル3世側につき、1066年両者はヨーク郊外の村スタンドフォード・ブリッジにて対戦します。その結果、ハーラル3世とトスティはハロルドに敗れ、デーン軍勢はブリテン島から去っていきました。

ヘイスティングスの戦い、そして新しいイングランド

ノルウェー軍に大勝したハロルド王ででしたが、彼の勝利には大きな代償が伴いました。ノルウェー軍との戦闘で大きな損害を受けた上、ハーラル3世たちを追い出すためヨークにいたため、ギョーム2世が軍を率いてサセックス地方に上陸した時は防衛に手が回らなくなっていました。

『ヘイスティングズの戦いの後でハロルドの遺骸を見つけるエディス』
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ギョーム2世はサセックス地方のヘイスティングスに砦を築き、周囲の村から食糧を略奪して兵站を補充し、十分な準備をした上で、1066年両軍はヘイスティングスにおいて対戦します。ハロルド軍は奮闘しましたが、力尽きて敗北し、ハロルドはここで戦死します。
圧倒的な勝利を得たギョーム2世はウイリアム1世として即位し、この時からノルマン朝が始まります。

英国王朝その後

この話の続き


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