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自由への旅 第五章

自由への旅 マインドフルネス瞑想実践講義 

ウ・ジョーティカ (著), 魚川 祐司 (翻訳)

第一と第二の洞察智

ー意識と対象の区別に気づくこと、そして現象の原因を把握することー

p204
私たちが担っている
最も重い荷物は「私(I)」です。
*最初の洞察智は、存在するものはただ現象だけであると観察すること。
 中略
 この「私」というのは、心の創り出したものです。
 中略
 それが根絶するのは「私」という誤った見解なのです。
p241
*第一の洞察智は無我、つまりナーマと ルーパをプロセスとみて
 存在者・実体・魂として見ないこと。

p205 ナーマ(知ること・精神的プロセス)と
     ルーパ(対象・物質的プロセス)

 p207 連続性と同質性は思考の産物
*私たちは 常に何らかの同質性が存在すると考えている。
 何かが常に存在していると思っているのです。
 中略
 思考が連続性を創造し、それがこの同質性という観念を創造する。

p211
*ナーマは対象ゆえに生起する。
 対象がなければ、何らの意識も存在し得ません。
 意識とは、そこに最初からあるものではないのです。
中略
*p212
食べるという働き身体によって、物質的プロセスによって為されます。
手を動かさずただ座って食べ物を見つめ、口に向かえとそれに命じても、食べ物は動かないでしょう。
https://www.youtube.com/watch?v=eitAwl5mdXY&t=4s  参考?

*心と身体が食べているのであって「私」が食べているのではありません。
 食べているのは心と身体ですが、私たちは、私が食べていると考える。
 実際には、ただ心と身体のプロセスが食べているだけなのです。
 これをプロセスとして理解できれば、
 あなたがはこの見清浄を得たことになります。
p213
*心と身体が動いているのであって存在者が動いているのだはないのです。
 こうした見方が、名色分離智です。
 実際には、存在者などいないのです。
*人がこの名色分離智という洞察智に至った時、
 その洞察智を得た状態が見清浄です。
p214 
 *第二の洞察智は、縁摂受智です。
p216
 心が対象へと向かい、注意を払っているのだと、
 私たちは観察するようになります。
 注意をはらうことなしに、聞くことはできないのです。
p217
*見ることについても同じです。
 中略
 *対象ゆえにこの意識があるということを、私たちは知る。
p220
 *現実には「私」のようなものはなく、」存在するのはプロセスです。
p225
*存在するのは意識だけ。
 精神的なプロセスと物質的なプロセスだけなのです。

p234
*この「私」という誤った見方に後押しされなければ、
 どんな煩悩も弱いものにまります。
 煩悩は「私」という誤った見方に後押しられる時は
 いつでも強いものになる。

*この種の思いが心に現れた時にはいつでも、ただ身を引き、
 距離をとって、同一視せずに、それをただ精神的プロセス
 として観察すれば、その思いは力を失います。
p244
*サマタ瞑想は基礎、たいへん強力な基礎です。
p244
*座って瞑想呼吸のする時、それは身随観です。
 すると思考が浮かんでくる。
 あなたがそれを観察すると、それは心随観です。
 身体に何らかの快か不快の感覚を感じる。
 これは受随観です。
 心が落ち着いて「これが落ち着きだ」と観察する。
 すると法随観です。
p246
*純粋に見るのが眼識で、その時には、
 あなたは自分が何を見ているのかすら知りません。
p248
*一つの洞察智が次の洞察智を導く。
 中略
 私たちは自分の意志で次の洞察智に進むことはできません。




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