見出し画像

アメジスト・タブレット・プロローグ<純粋冥想の道標>

ダンテスダイジ (著)

ヨガについては解らないので、読み飛ばしていますが、禅に関することは興味があるので抜粋しました。

また、なんとなく惹かれる言葉も抜粋しています。

頭脳の使い勝手がいまいちなので、複雑な密教やヨーガは

手に負えなくて縁がないというか読んでみてもピンときません。

シンプルで奥の深い禅やタオはなんとなく惹かれるし、馴染みやすいですね。

仏陀の教えはヴィッパサナーを始めたので、最近、少し興味が湧いてきています。

こちらの書籍は、いろんな方向から見えない的を包括したようなホログラフィックな表現で

全体が構成されていて、純粋冥想の道標としての機能を備えているようです。

純粋冥想の何たるかは解らないまでも、最後まで引き込まれて読んでしまいました。

p76
自我とエゴイズムの問題なら、禅がオーケーだ。
中略
あなたがいる限り、生老病死の苦悩がある。
あなががいない時、全体性が目覚める。
それが禅である。
p77
本質的な問いには、解答というものはない。
にもかかわらず、あなたは、問うことをやめてはいけない。
p78
カオスというものも
トナール・ナワールというも
色即是空というも、所詮、人間のでっちあげたもの。
中略
ここに
いつも全体がいるから
只管打坐が純粋冥想なのだ。
p93
ニルヴァーナとは、不二一元でさえもない。
神とは、ニルヴァーナの中なるマーヤーの流出源にすぎない。
p103/104
冥想とは、
全次元存在と絶対的非在との、
最終的結末であり、
それと同時に、その中間であり出発点である。
それゆえ、
人類の禅努力は、
純粋冥想に打ち込むための、
余暇を作ることにある。

快楽は苦痛であり、
安心は不安であり、
満足は不満足であり、
悟りは迷いである。
これでよいのだ。
それでよいのだ。
ただし、君は決して、これもそれも信じてはならない。
p112
老子道徳経もまた、
純粋冥想の手引きだ。
老子を読解する要領は、
老子が、
戯れの微笑で、老子五千言のメッセージを、
書いたのだということ。
p125
タオとは、
タオでさえない。
それは、
人間的認識形式の消滅によって垣間見た存在的認識形式の一部分にすぎない。
p127
底抜けのほがらかさに至らざれば冥想にあらず。
単純極まりない素朴さに至らざれば冥想にあらず。
余りのあたりまえさに至らざれば冥想にあらず。
p162
あらゆる出来事も存在も、
すべて一回限りのものであり、
連続性とは、観念的虚構にすぎない。
p175
ブッディズムの「空」
禅の「無」
老子の「タオ」
トルテック呪術の」「ナワール」
などの名前は、概念や観念を否定しようとしてつけられた名前だ。
したがって対象的なものになりえないから、
君の人生のささえにはならない。
それに対して古神道の「神」
イエスの「エホバ」
バクティ・ヨーガの「クリシュナ」
マホメットの「アラー」
ゾロアスターの「アフラ・マツダ」
マントラ・ヨーガの「オーム」
などの名前は、対照的なものになりえるから、
もしそこに祈りが含まれていれば、君自身の感情やアストラル体を
浄化する作用があるから、多少は、君の人生のささえになる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?