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モンティ・パイソンの演技はなぜ古くならないのか?

「バカの壁」という言葉をご存知でしょうか。

異なる常識を持った人間同士が、相手の理解できない言動を見てお互いに「こいつバカじゃないか?」と思いあうことで(笑)、よくありますよね。職場でも、家庭でも。

このような状態を「バカの壁」をはさんだ人間関係だと解剖学者の養老猛司先生が書いてベストセラーになったりしたのですが・・・この「バカの壁」、演技の中に発生すると最高の芝居!になるんですよw。

たとえば「モンティ・パイソン」のコントの多くはこの「バカの壁」の構造で演じられています。そしてそれが彼らのコントがいつまでたっても古くならない理由なのです。

日本におけるお笑いの基本は「ボケ・ツッコミ」の構造ですよね。

「ボケ・ツッコミ」はツッコミが常識の立場、ボケが非常識の立場に立ち、ツッコミが常識でもってボケの非常識を指摘もしくは注意してゆきます。日本のコントはダウンタウンでもさまぁ~ずでも三谷幸喜でも福田雄一でも「マカロニほうれん荘」でも「すごいよ!!マサルさん」でも、だいたいこの構造で笑いを作ってゆくのですが、「モンティ・パイソン」は違います。パイソンのコントは2人ともが異なる常識の立場に立ち、お互いを非常識だと罵りながら激しくぶつかり合うんです。(現実世界みたいですねw)

なので「ボケ・ツッコミ」構造のコントで俳優はボケが「非常識な人間」の演技をし、ツッコミが「常識的な人間」の演技をするのですが、「バカの壁」構造のコントにおいては俳優は2人ともが別々のコミュニティを代表する「自分は常識的だと思っている人間の演技」をします。そしてお互いに相手のことを「非常識な奴だな~」と思っているのです。

これはパイソンのコントが風刺が基本になっていることと関係があります。金持ちと貧乏人がお互いをバカだなぁと思い。若者と中年がお互いをバカだなぁと思い。平民と王侯貴族がお互いをバカだなぁと思い。エリートビジネスマンと肉体労働者がお互いをバカだなぁと思い。キリスト教徒と無神論者がお互いをバカだなぁと思い。資本主義者と社会主義者がお互いをバカだなぁと思い。男と女がお互いをバカだなぁと思う・・・この世の中に現実にある様々な深刻な「バカの壁」を爆笑コントとして見事に演じきっているんです。

なのでパイソンのコントに基本「いわゆる普通の人」は出てきません。それは現実の世界に「いわゆる普通の人」などいないからです。

パイソンのコントに於いて俳優は必ず「なんらかのコミュニティーを代表する人物」を演じています。「○○な常識の中で育ち、それを信じて生きている人」を演じ、そしてそういうコミュニティーの人物特有の言動の偏った部分を正確に描写します。

なのでパイソンのコントで非常識な行動をするように見える人間も、じつはその人間にとっての常識的なことをしているに過ぎないのです。この役作りがキモなのです。

パイソンの有名なコント「スパム」に出てくるやたらスパムを食べさせようとする大衆食堂のオバサンも、スパムを食べたくない中産階級の夫婦も、途中で出てくるスパムをスペルマと発音して追い出されるハンガリー人も、誰一人として自分を非常識だと思っていません。「バカの壁」を挟んで相手の言動がただただ非常識に映るのでお互いに感情的になっているだけで、そのぶつかり合いが爆笑を生むのです。

コント「フルーツから身を守る方法」に出てくるフルーツを凶器に襲いかかってくる暴漢を撃退する護身術をやたら教えたがる教官も、退屈な授業にうんざりしている学生たちも、お互いにお互いの非常識に見える言動にあきれています。おかしな教官もふまじめな学生たちの非常識さにあきれているのです(笑)。最高w。

「チーズショップ」のコントも「死んだオウム」のコントも「バカ歩き」のコントも「討論教室」のコントも、多くのコントがこの「バカの壁」構造のコミュニケーション演技で演じられています。

そしてこのコントの中で非常識に見えるふるまいをする人々を演じる俳優たちの役作りは「狂人」ではなく、単に「○○を常識として信じていて、××に対して寛容でない人々」。どの人物も家に帰ると愛情深い常識的な人間・・・という役作りなのです。

パイソンはTVシリーズの第3シリーズくらいからキャラクター志向になってゆき(当時はそういう時代でした)「デニス・ムーア」とか「サイクル野郎危機一髪」とか「ミスター・ニュートロン」とか、キャラが分かりやすくボケるようになり、人間関係の摩擦を描くことが少なくなっていったんです。

その結果コントは革新的な「バカの壁」構造から凡庸な「ボケ・ツッコミ」構造にシフトしてゆき、失速して第4シーズンで終わるのです・・・。

が、映画版シリーズでその「バカの壁」構造が復活します。『ホーリー・グレイル』『ライフ・オブ・ブライアン』『人生狂騒曲』・・・その中で「バカの壁」構造コントの最高傑作といえばやはり1979年の『ライフ・オブ・ブライアン』でしょう。

『ライフ・オブ・ブライアン』はキリスト生誕を笑いにした映画で、宗教・人種・階級・政治的信条・・・あらゆる「バカの壁」がクッキリと存在していて人々がお互いを「こいつバッカじゃないの!?」と思いながら火花を散らしているんです。これぞ人間社会、なんと面白くも美しい演技でしょうか。(下の5つの画像を見て笑ってしまった。どれも人と人の間にバカの壁があって、ひとつも会話が成立していないw)

パイソンを早めに離脱したジョン・クリーズのTVシリーズ『フォルティ・タワーズ』は、自分は善良で常識的な人間だと思い込んでいる差別主義者のホテル経営者がさまざまな客と揉め事を起こす、まさに「バカの壁」コントで最高の傑作でした(笑)

彼はパイソンの第3シーズンからの流れが気に入らなかったらしく、その鬱憤をこの作品で爆発させています。『フォルティ・タワーズ』・・・大好き☆

そしてテリー・ギリアム監督の1985年の『未来世紀ブラジル』

主人公は情報省記録局に勤める小役人でまさに「役人の常識の中で生き、それを信じて生きている人間」。彼にとっては庶民の人達も、金持ちで快楽主義者の母親も、レジスタンスもすべての人々が非常識に見えるのだが、レジスタンスの女性に恋したことによって彼の人生自体が非常識の世界に引っ張られてゆき、常識的であった彼の世界がひっくり返ってゆく・・・という「バカの壁」コントの連続みたいな傑作SF映画。主人公を演じたジョナサン・プライスのコミュニケーション演技がみずみずしくて素晴しかった。

この『未来世紀ブラジル』ってどの役もパイソンズのメンバーが演じることを前提に書かれたように見えるんですよねー。で、実際パイソンズが演じたらもっと「バカの壁」がクッキリ見えて面白かっただろうと思う。

特にロバート・デ・ニーロが演じたタトルは、最高なんですが・・・ジョン・クリーズが演じたらさらに最高だっただろうなあ。デ・ニーロは基本メソード演技の人なので、自分のキャラを作り込んで自分の心情を中心に演じてしまう。その結果主人公とのコミュニケーションが薄くなってしまっているんですよねえ。このスタンスだとなかなか「バカの壁」は発生しにくいんですよ。

彼を演じてるのがもしジョン・クリーズだったら(妄想ですがw)、もっと主人公に対してパワフルに高圧的にコミュニケーションを仕掛けてきたでしょう。だってその方が笑えるから。

自分のキャラ作りよりも、いかにして主人公を圧迫するかにもっと集中しただろうし、その結果逆にキャラクターとしてもっともっと輝きを増していったと思う。このタトル見たーい!(笑)

という風に「バカの壁」的な「○○な常識の中で育ち、それを信じて生きている人」という役作りは・・・いつもいつも例に挙げて恐縮ですがw、『アイアンマン』での金持ちクソ野郎トニー・スタークの演技や、『ダークナイト』での狂人ジョーカーの演技なんかに受け継がれてますよねw。彼らには彼らの信じるものがあり、それゆえに「バカの壁」のむこうからは非常識な人間としか見えない、という構造の名演技。

コミュニケーションが成立しない、というのも立派な一つのコミュニケーションなのです。

…というわけで、笑いを演じる時に安易に「ボケ・ツッコミ」の演技をしないで、「バカの壁」を発生させるような演技をしてみてはいかがでしょう?・・・という話でした。

長文、最後までおつきあいありがとうございました~☆

小林でび

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