スピルバーグ版『ウエスト・サイド・ストーリー』に違和感を感じた人のためのnote。
スピルバーグ監督版の『ウエスト・サイド・ストーリー』ご覧になりましたか?
あの街を丸ごと作ったような巨大なセットで繰り広げられるダンス、ダイナミックなカメラワーク、そしてゴージャスにリメイクされた音楽・・・これぞエンターテインメント。
映画が瓦礫の山から始まることにかなり驚きましたが、おなじみのレナード・バーンスタインの音楽が始まると心は高鳴り、街をのし歩きながらのダンスシーンのカメラワークはおお!凄いな!と・・・でもダンスパーティーのシーンの最後まで見たあたりで、ふと停止ボタンを押しました。(配信だったので)
あれ?『ウエスト・サイド物語』ってこんなだったっけ?
こんな「瓦礫の街で生きる子供たち」みたいな健全な物語だったっけ?
で、ちょっとだけ確認するつもりで1961年版の『ウエスト・サイド物語』のDVDを引っ張り出してきて最初から見返してみたんですよ。そしたら大興奮!めっちゃカッコいい不良ムービーじゃないですか!ダンスシーンもめちゃくちゃワクワクして・・・ついつい最後まで見ちゃいましたw。
で、もう一度スピルバーグ版に戻って、続きを最後まで見たのですが・・・。
え?このトニーとマリアはなんで惹かれあったの?
恋人を殺されたアニータはどうしてマリアとトニーに協力する気になったの?
1961年版ではすんなり受け入れられた人物の心の動きが、正直スピルバーグ版ではいろいろ腑に落ちなかったんですよね。もちろんあらすじは同じなんで理解はできるんですが、表現として腑に落ちない・・・正直「芝居の力学」的な部分が意図せず書き換わってしまっているのでは?と感じました。
今回の「でびノート☆彡」は、大評判のスピルバーグ版『ウエスト・サイド・ストーリー』が腑に落ちなかったボクみたいな人のために、その理由を解析したいと思います。
パッションはどこへ?
スピルバーグ版と1961年版で一番違っているのは「怒りの表現」です。ジェッツもシャークスも差別や貧困と戦いながら生きています。その苦しい生活の中で持て余した若いエネルギー、激しい怒りやら欲望やら喜びやらを1961年版の『ウエスト・サイド物語』では衝動的なダンスや歌や演技で表現していました。それが超カッコよかった。
それに対してスピルバーグ版では、それらがほぼセリフで説明されちゃってるんですよね。ダンスや歌のシーンでは彼らの怒りや暴力衝動などのネガティブなパッションはほとんど表現されていません。
だからダンスパーティーのシーンで、ジェッツとシャークスのにらみ合いに強烈な怒りや憎しみ・・・人種の壁があることが見えてこないんです。
マリアとトニーが出会ったシーンでも、1961年版ではベルナルドは「そんな事あってはならない!」と天地がひっくり返るくらい激怒してますが、スピルバーグ版のベルナルドは「お前ムカつくなあ」くらいの表現で怒ってます。
不良性はどこへ?
それから例えば「アメリカ」のシーン。1961年版で「(殴る)(殴る)アメ〜リ〜カ」という彼らがアメリカで受けている人種差別についての怒りを表現してるくだりがあるんですが、スピルバーグ版ではそこがなんとボクシングの振り付けに変わってるんですよ。「人種差別に対する怒り」を表現するくだりが「スポーツ」とか「男らしさのアピール」を表現するくだりに変わってしまっているんです。え?なんで?っていう。
とにかくスピルバーグ版は健全です。1961年版では真夜中の暗い屋上とかでひっそりとダンスしてたのが、スピルバーグ版では真昼の交差点の太陽の下で楽しくダンスしたりしているし。明るく楽しいファミリームービーですよね。音楽も全体的に1961年版は衝動的なジャズっぽい演奏だったのが、スピルバーグ版ではゴージャスで楽しいオーケストラ編成にアレンジしなおされています。
そもそも映画冒頭の「ジェット・ソング」のダンスシーン。1961年版ではジェッツの不良性が具体的な描写の数々でアピールされていて、彼らが街の人たちから怖れられたり煙たがられているという「関係性」がダンスシーンで表現されているのですが・・・それに対してスピルバーグ版のジェッツは威張ってないし、誰にも迷惑かけてないし、ペンキを盗んだら「こら!悪ガキ!」みたいに街の人に怒られてるし、で何をするのかと思ったらプエルトリコの国旗をペンキで消そうとしている・・・全然不良じゃないんですよね。いい子たちなんですよw。
若者の視点・老人の視点。
「ジェッツもシャークスもいい子」・・・ここが今回のスピルバーグによる最大の改変点だとボクは思います。これって「孫を見守るおじいちゃんの視点」だと思うんですよねー。
1961年版は若者の物語が「若者視点」で語られていたんです。視点は当事者たちにあるんです。だから不良っぽい無軌道な振る舞いやファッションなどがめっちゃカッコよく描写されていました。
それに対してスピルバーグ版の視点は外にあります。スピルバーグはバレンティーナの目線を借りて、その「老人の視点」でジェッツとシャークスのみんなを見守っているのです。「本当はみ〜んないい子なの、わしはわかっとるよ〜」っていう。
だから彼らは全然不良じゃないんですよね。ケンカはするけど犯罪はしません。ペンキで落書きをするくらいですw。飲酒も喫煙もドラッグもやりません。ベルナルドはバレンティーナの店でお菓子を盗んで食べて怒られてます。小学生ですよねw。ディズニーアニメの不良描写っていうか、『レディ・プレイヤー1』っぽいな〜と思いました。全員いい子。
スピルバーグ版のベルナルドは全然不良じゃなかったし、強くもなかったですよね。ベルナルドがマリアに「トニーと二度と会うな!」というシーンも、1961年版のベルナルドは頑固で怖かったですが、スピルバーグ版のベルナルドはマリアやアニータに何か言い返されるたびに焦ったり、口籠もったりして・・・女性に頭が上がらないいい子でした。
マリアはなぜトニーに恋したのか?
このスピルバーグが消去した「不良性」みたいなものが、「芝居の力学」的な意味でいろいろバランスを壊していると思うんです。
たとえば「マリアはなぜトニーに恋したのか?」・・・それは1961年版ではマリアのお兄さんが最強の不良・ベルナルドだったからですよ。マリアは家の中に最強のワルがいたので、どんな強そうにイキがってる男が現れても、もうピンとこないんですよ。どんな男もベルナルドと比べると頼りなく弱く見える、だからチコは振られるんです。
そこにトニーが現れる・・・トニーは今までマリアが見たことない尺度の魅力を持って目の前に現れます・・・彼は「甘い」んです。マリアにとって今まで唯一の尺度だったベルナルドと真逆の「甘い甘い男」だったからこそドキッとしたんです。楽観的で「マリ〜アマリアマリアマリ〜ア」とか「トゥ〜ナ〜イ」とか甘々なラブソングを歌っちゃうような男ですからねw。だから一目惚れが成立したんです。
ところが、スピルバーグ版のトニーはけっこう殺伐としてるんですよ。ある意味ベルナルドやシャークスの面々と同じタイプの男なんですよ。しかもベルナルドもマリアに弱い・・・なのでマリアがトニーに一目惚れする理由がわからなくなっちゃうんですよ。
1961年版の『ウエストサイド物語』は冒頭からベルナルドとリフが「ニヒルな不良」のカッコよさで徹底的に観客を魅了したところで、ベビーフェイスであるトニーが登場してその魅力で観客を一目惚れさせるという、そういう力学で成り立っていたのですね。
「悲観的でニヒルな不良たち」vs「楽観的でベビーフェイスなトニー」という構造が『ウエストサイド物語』の物語の根幹を担っていたのだと思うのです。その間でマリアが、そしてアニータも揺れ動く。そう、アニータもトニーとマリアの「楽観性」に賭けてみたくなったんですよ。
スピルバーグおじいちゃんの優しい視線。
といった感じでスピルバーグ版は「スピルバーグおじいちゃんの視点」で描かれてますからね、みんな可愛く描かれちゃうんですよ。ボクはふと松本零士のことを思い出しました。
松本零士は70〜80年代に『銀河鉄道999』の鉄郎やメーテル、そしてエメラルダスやハーロックたちを怒りや様々なパッションを抱える若者たちを主人公にした漫画を何本も大ヒットさせました。今も松本零士はまだ彼らを描いているんですが、今描かれてる鉄郎もメーテルもエメラルダスもハーロックも、みんななんだか幼くなっちゃって、すごくいい子になっちゃってるんです。
これは70〜80年代は松本零士は彼らを「自分の分身」としてパッションを込めて描いていたのに、彼自身がおじいちゃんになってからはいつまでも若々しい彼らを「可愛い孫」みたいな気分で見るようになってしまったからだろうなーとボクは思ってます。晩年の水島新司作品とかもそうでしたよね、みんな可愛くなってた・・・余談ですがw。
えーとそろそろまとめましょうw。
『ウエスト・サイド物語』と『ウエスト・サイド・ストーリー』は同じストーリーですがまったく別の物語です。なのでもし1961年版の『ウエスト・サイド物語』を見たことがない方がいたら、スピルバーグ版が好きな人も、好きになれなかった人も是非一度見てみて欲しいんですよね。絶対に見て損しない名作中の名作だと思いますよ☆
小林でび <でびノート☆彡>