The Journey Within 要約 ②-2 で、結局私は誰?
Rahdanath Swami
で、結局私は誰?
多くの人にとっては、自分が何者かという問いは湧き上がりません。身体と心の同一性にとらわれると、私たちの本当の性質を探究する時間もなく、またその必要もありません。私たちが人生の深い意味を見つける必要が生じたときにだけ、この質問は本当に関係あるものになります。それでは、短い人生を超えて何があるのか、永遠の充足をどうやって見つけるのか、探してみましょう。
インドの偉大なる霊的書物、バガヴァッド・ギーターとウパニシャッドは、すべての階層における私たちのアイデンティティの完全なる分析から始まります。これらの書物はサンスクリット語で書かれており、サンスクリット語では、自己を"アートマ"と言って、永続し、破壊されることなく、意識の要素であり、慈悲溢れる意識の本質のことを指します。アートマは時間と、身体を通して物質世界を経験するので、私たちは誰で、何なのかを理解するには、私たちが誰で何でないのかから始めることです。
私たちは私たちの住む身体ではありません。
私たちは心でもありません。
私たちは心と身体の'中に'います。
身体が車で、運転手が自己であるという例え話に戻りましょう。車がどんなに素晴らしいものでも、運転手がいなければ動くことはできません。しかし運転手は車がなくても機能します。私たちの住む物質的身体とアートマは別物です。
私たちが特定できるものとして、形ある要素、すなわち物質的身体と感覚があり、私たち自身であると捉えています。私たちが特定できるものとしてもっと繊細な要素に、心、知性、エゴがあります。これらの一時的な要素は貴重であり、私たちを周りの世界と結びつけてくれます。しかし注意しないと、一時的な自己は本当のアイデンティティへの理解に蓋をしてしまいます。
私たちは、直接の経験と感覚に対する執着によって、身体と心を特定します。実際、物質的身体と心的身体を通して感覚を求めるのにたくさんの時間を使い、私たちはこれらの身体と実質的に一つであると感じています。
しかしこれは幻想です。アートマは身体と同じではありません。アートマとは身体の中にいる観察者です。経験をしている"私"です。物質 -私たちの身体と心を作っている大小の要素- は、アートマが動かさない限り自ら動くことはできません。認識やその他の生命の兆候は、アートマが身体を離れたときに止まります。この現象を死といいます。
知恵とともに生きるといことは、人の身体的、感情的、精神的機能が養われるように生きることであり、人の考え、言葉、行為を身体の中にある自己に調和させることです。私たちが物質的身体と心以上のものであることを忘れるとき、身体と心に生来ある脆弱性から苦難を受けます。
一般的な言葉ではないかもしれませんが、"受難"とは普遍的な経験です。私たちはすべて、身体的・感情的に受難します。しかし、より深い自己認識を培うと、それと特定することなく受難を認識することができるようになります。最終的には、受難を超越します。私は、この域に達した人を知っています。
私の師、プラブパーダが物質形態の最後の日々を過ごされていたとき、師の体は骨と皮だけとなってとても衰弱していました。しかし最後の瞬間まで、師は自身を他者に捧げ続け、サンスクリットの知恵の言葉を未来の世代のために翻訳し続けました。師の生徒の一人のある科学者が師と面会したとき、愛する師がそのような状態にあるのを見て消沈しました。プラブパーダは微笑んで、『君は科学者で、君のやり方では証明が必要だろう。私の人生をかけて教えてきたことは、君は体ではないということだ。今私は証明しようとしている。私の体はほとんど逝っているが、私は同じく私だ。』 その生徒は、偉大なる師は自らの例を用いて言葉に命を吹き込むものだと思い出しました。
"私たち"はどのように受難を超越することができるでしょうか。認識と態度を変えることから始めましょう。アルバート・アインシュタインの言葉を借りると、『私たちが問題を作ったのと同じ考え方をしていては、問題を解決することはできない。』 ギーターは、自己を覆う階層の段階の教えによって、私たちの変化のプロセスを助けてくれます。
バガヴァッド・ギーター 3.42
作用する感覚は物体より優れ、心は感覚より勝っている
さらに知性は心より勝り、そして魂は知性より上位である
この階層は例え話で説明できます。アートマは、5体の馬に引かれる戦車に乗る乗客です。戦車は体であり、5体の馬は感覚です。手綱は心であり、御者である知性によって握られています。これら全てはアートマの指示のもとにあります。理想的には、アートマが知性を従え、心をコントロールし、心は感覚をコントロールします。覚醒ないし自己認識ができていないと、乗客は何もしません。むしろ、知性に指示する権限があることを忘れ、安定しない心と抑制の効かない感覚に惑わされ、知性は簡単にあっちに行きこっちによろめくことになります。
変化は、第六感とも言うべき、心の手綱をコントロールすることに知性を使うことから始まります。