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The Journey Within 3-⑤ バガヴァーン 完全なる表現における至高主

ヴェーダ聖典は、至高主は純粋に精神的で美しい形をしていると教えています。その形は物質で作られておらず、したがって物質的な創造物の一部ではありません。ヨガの言葉では、サット・チット・アーナンダ、永遠で完全なる知恵と慈悲となります。

バガヴァーンという言葉は、秀逸なるものの源を意味し、ヴェーダ聖典は秀逸なるものとして、美、力、知識、富、名声、そして自立をあげています。至高主は、これらの秀逸なるものを計り知れないほど所有しています。無限なる美、真に限界のない富がどんなものか想像してみて下さい。神は全てを知っているとして、何を知っているのか想像してみて下さい。「全て」とは実際にはなんなのでしょう? 私たちの限界ある心をもってしては、神の個性と性質を知ることは叶いません。

私たちの最も深くて、基本的な欲求は、愛し愛されることです。バガヴァーンは、至高主の美しく、個人的で、愛し、愛すべき側面です。バガヴァーンは、完全なる自身であるとき神であります。そして、その完全な自身の表現であるとき、神は何をしているのでしょう? 神は、私たち一人ひとりに、親密に、かつ完全に、愛を与えているのです。私たちが神に最も愛されていると感じるほどに。

愛とは、私たちが理解し得るもので、私たちは互いに愛を交換しています。私たちが今他者に感じる愛は、私たちが至高主との個人的な関係を理解しはじめるのに役立ちます。なぜなら、愛する傾向は、神の完全に充足した愛に起源を有しているからです。

私たちは、神がどのように私たちに愛を与えるかを多くの経典で学ぶことができます。特に、バガヴァッド・プラーナやラーマーヤナのような聖典で、他者との個人的な愛の交換の詳細が説かれています。私たちが神を愛する者となるために、これらの聖典は、私たちが思い浮かべられるように、神の美しい形、素晴らしい性質、この世と精神世界での活動を説いています。私たちは会ったこともないものを愛することが難しいので、私たちが神に近づけるように経典が明らかにしてきました。

バクティの伝統は、多様性の中に内在する統一の思想を教えています。唯一の至高主は、精神的求道者の願望により顕現します。あるものはブラフマン、際限のない光と全ての存在の統一体としての神に向かって行きます。あるものは内なるガイドとしてのパラマートマとして神を求めます。そしてあるものはバガヴァーン、愛し愛される至高主として神との連携を求めます。バガヴァッド・ギーター(4.11)にこうあります。「私へ身を委ねた程度に応じて私は人々に報いる。」

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