ADHDが人類のサバイバルにおいて重要な意味を持っていたという説
YouTubeで見たのだけれど、ADHDって実は人類のサバイバルに重要な意味を持っていたという説があるという話。
全く同じ考えだけを持った集団は弱い
ということらしい。集団行動をするときに、所属メンバー全て均質に規範を守る考え方を持っているとすると、それはプラスに働くと私は考えていた気がする。集団「行動」ではそうかも知れないけれど、種の存続的な考え方から見れば、全員が同じ考え方であれば、新たな発見をする機会も少なくなるので弱い集団になってしまう。一定程度、他のものと異なるものの見方や考え方や行動をする個体がいるのはそのためで、ADHDの存在はその様にして説明できるという説があるのだとか。
先日都立大学構内だかで刺されて重傷を負ってしまった宮台真司氏と安藤優子氏が議論を交わしているYouTubeで、宮台氏がそんな説について話していたことから知った。
集団ははみ出る個を尊重する方がよい
昨今、ADHDの存在もよく知られているし判定することもできる様になっている様だが、あまりにも空気が読めなかったり他人と行動が違っていると、それは良いか悪いかで言えば「悪いこと」として捉えられるのがより一般的だ。なので、ADHDの人はある意味はみ出しものとして、嫌われるかケアされる(矯正含め)対象となりがちだ。
でも、種の存続に大きな役割を果たしているのだとすれば、その様な人たちの集団に対してはその利点、例えば人が考えつかない様な新しい案を考え出せること、の方を重要視して集団の中で尊重したら良いのだとのこと。
それを聞いてハッとした。
私はソフトウェア開発の考え方でSCRUMが好きだけど、そういったはみ出しものの個体の力を活用したければ、Daily Routine的なことだったり個々に対して求める役割(チームへの貢献の仕方)を型にはめること自体がその目的に対しては逆効果だともいえる。
SCRUMにはそう言ったDaily Routineが約束事として決められていて、それらをrituals(儀式)と呼んだりする。プロセスとして軽くすることに対してとても真剣に取り組んだ結果のものなので、時間とか工数で言えばそこまで重たくはないのだが、ADHDの人たちの強みを活かすのは難しいのかも。
自分も
周りの他のみんなができる普通のことをこなすのが異常に苦手だ。そして、何かに集中するとすぐに周りが見えなくなるし、周りが見えなくてはいけない状態で何かに集中するというのがとても苦痛だ。そもそも私には落ち着きがない。一箇所で仕事しているのも、すごく苦痛。とりあえず動きながら何かをしたい。これって、多動症と言われるやつなんじゃないか?
よくそれで周りに迷惑をかけるし、そういうルーチンて別に皆好きでやっているわけじゃないので、自分だけやらないことを「できないから」「苦手だから」で正当化しちゃいけないなと常に思っている。が、本当に苦手なのだ。
そんなこともあるし、チームの中に明らかにそういう、ADHDと呼ばれそうな特徴を持っている人たちが何人も居る。そういう人たちって、光るものがあるから採用したし、常日頃から光ってもらいたいと思っている。一方で、SCRUMなんて使っちゃうと、多少なりとも型にはめようとすることになるので効果としては逆なのか・・・。
そもそもソフトウェアの技術者とかって、そういう人多いよなぁ。
答えはない
だからと言って、じゃあどうするのが良いのか、特にアイデアはない。笑
なんかないかな。
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