才人・小椋佳
*上の番組をNHKオンデマンドで見たのは2年ほど前。目下、この動画は配信されていない。その直後ツイッターに書いた記事をここに再録しておく。
小椋佳というクリエーターの全体像を描いている。思うにつけ、この人はいわば森鴎外タイプの表現者だった。あるいは西武の堤清二のような。日本的知識人の1つの類型だ。
日本社会においては芸術では食って行けなかった。今でもほとんどそうだ。食えたとしても政治家や経済人のような富裕な生活は難しい。ゆえに堅固な組織に所属しつつ、いわば高尚な趣味のようなかたちで表現活動をおこなう。
本業を疎かにすると、たちまちバッシングされる。小椋佳こと神田紘爾が優秀な銀行マンとは知っていたが、若き日の仕事ぶりに驚かされる。80年代以後、爆発的に生まれた金融商品の導入を差配しつつ、部下にはプライベートを大事にせよと厳命。「何か考えてこい」と全員に1週間仕事を休ませたりする。
ニューヨーク支店に出向すれば、帰国後は頭取の地位を約束されていたのに、病気の子供の心配もあってこれを拒否。浜松支店の支店長に左遷される。つくづく勧銀ってやつは、やることがえげつないね。数年後、銀行を辞める。
次男が重篤の脳障害を発症して、この世話が大変だったことも知っていた。で、普通そんなことは滅多になさそうに思う。遺伝的に何かあったんじゃないの?小椋自体が思春期以来ずっと心身の障害に苦しんできたことが今回クローズアップされていて、器質的に何か問題があったんじゃないかと想像される。
小椋自身はそれを創作により克服した。この人にとって音楽はたんなる「趣味」といったものではなく、なくてはならぬものだったことがよく解った。それにしても銀行の激務とよく両立し得たものだ。極度に優秀な頭脳の持ち主には違いない。
ただ、その歌の世界は基本的にセンチメント、感傷であり感覚的なものだ。小椋佳の最も優れた歌詞は「揺れるまなざし」のような想像的なイメージを駆使した、夢の延長のような表現にある。逆に、自らの想いを直接的に歌う詩は凡庸きわまりない。たとえば「白い1日」など、いかにも日本知識人の感傷という感じで、面白くも可笑しくもない。
今回の番組で、この歌が生まれたエピソードを知った。大学時代に小椋は寺山修司の詩会に出入りしていた。寺山こそが小椋佳の生みの親と言える。
寺山には圧倒的な才能があったので、小椋佳の才能を見抜いていた。自分の作るレコードに参加させた。それが音楽プロデューサー多賀英典の耳に止まる。てっきり15歳ぐらいの美少年だと勘違いして銀行に会いに来てがっかり😔
「きみ(の顔)はダメだけど、楽曲はすばらしい。誰かに歌わせよう」ということになり、1年ほど探し回って見つけ出したのが井上陽水。その歌に小椋も感嘆して、「白い1日」が録音されることになる。小椋同様、とても美少年とは言えなかったが……とまれ、すべては寺山修司から始まった。
今回、多賀さんがこのエピソードを披露しつつ、井上陽水にとってこの「白い1日」が大きなヒントになったのではないかと推測する。自分で詞を書こうとするとき、小椋佳を手掛かりにしたのではないか。本来、陽水はセンチメントと無縁だ。それでは商売になる歌が書けない。困っていたはずだ。
センチメンタルな詩だと、いくらでも曲が書けるという事実を陽水は発見したに違いない。むしろこの路線でやりすぎて、後年これを自分で修正するとき多大な苦労をする羽目になった。そのときアドバイスをしてくれたのがタモリだった。詩から感傷性を徹底的に排除するように勧めた。それが良かったかどうかは、また別の話だ。
寺山の詩は100年残るだろうが、小椋の詩はどうか判らない。歌い継がれるのは確かだろうが、それは詩とメロディの相乗効果で、詩自体は天才的とまではとても言えない。本人もそれに気づいていて、だから哲学に手がかりを求めようとして、大学に入り直したりしたのではないか。
感覚を超える世界が厳然としてあって、それに手を届かせようとするのが本来の詩であり、哲学である。日本の知識人および表現者のほとんどが、感覚的な日常の感覚に淫し、それを超えるものに思い至らぬまま終わる。そうじゃないと日本社会では商売にならないというのも事実である。
三島由紀夫は、こうした日本社会の構造に苛立っていた。食って行けるか行けないかで表現の幅が決定されてしまう。そこには真の美もなく真理もない。むしろ組織から出ること、そこから「堕ちる」こと、堕ち切ることが肝要だ。
そうした覚悟において、三島は日本社会から追い詰められることになった。これを甘受し、ついには切腹して果てたのである。この苛烈な先人と比べるとき、いかんせん小椋佳はあくまで才人としてとどまる。それは森鴎外や堤清二にしても同様である。