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『三体』(アマプラ中国版)――未知なるものへの呼びかけ

『三体』(アマプラ中国版)――未知なるものへの呼びかけ

1 中国版『三体』をアマプラで見る

小説はやたら長く、面倒なのでサブスク動画を待っていた。ずいぶん前にネットフリックスは解約しており、Amazon プライムビデオの中国版を見始めたが、やたら面白い。時間をかけてじっくり見るつもりだったのに、つい立て続けに3日で見終えてしまった。

以前、中国製のアマプラ動画として評判の『ロング・ナイト』を見始めたが、文字通り長い!それに俳優の顔が古臭くてどれも気に入らない。すぐ見るのをやめた。

中国版『三体』は見るからに潤沢に資金を投入し、脚本から映像から風景から細部に至るまで瑕瑾がない。国家作戦センターのビルをはじめ、建物や景色や美術にも見惚れる。女優は驚くばかりに美人ぞろい。よくもこんな美形ばかり集めたものだ!女優にかぎらず出演俳優の顔が脇役に至るまで例外なく皆んな好い。むろん演技も素晴らしい。

いまのアメリカのドラマや映画のような、これでもか!とばかりに宇宙人と闘う低偏差値の作品では全くない。20世紀末から物理学において本質的な進展が見られず、人類の知は「境界」ーーようは限界を迎えてしまったのではないか?という深い問いかけが物語の根本にある。

「もはや物理学など存在しない」。オレ自分も含め、そう疑っている者は少なくないと思う。超弦理論がどうたら言っても、実験がほとんど不可能な領域で理論ばかり異常なまでに先鋭化している。確かなことは何ひとつ解らない。ブラックマターまで出て来てはどうしようもない。

そんな深刻な懐疑をSF化した着想がまずもって素晴らしい。しかも、そうした現代物理科学への疑いを文化大革命以来の共産党支配の中国政治にたいする批判に絡めている。

文化大革命が中国の大学人にいかに抜きがたい爪跡を残したか。知識としては知っていても、映像作品として本作ほどそれをまざまざと描いた作品は他にないのではないか。先端的な知識人集団ゆえに傷痕と怨恨が深く残った。

大学および大学人の描き方が例のないほどリアルだ。中国における知識人の有り様を克明に描き、文化大革命時と今の違いを対照的に示す。そこには明らかに類似性も見られる。抑圧的な中国の体制はさほど変わっていない。それに知識人への弾圧は中国に限ったことではない。大学人と大衆の関係に着目することで、本作は今の退嬰的な世界における知識人の運命をも照射することになる。

中国版『三体』主要登場人物

主人公・汪淼(ワン・ミャオ)役の張魯一(チャン・ルーイー)の演技が素晴らしい。立ち振る舞いや神経質そうなところが、いかにも理系の学者っぽい。丸眼鏡のせいか、どこか坂本龍一を思わす。かれの神経を逆撫でするのが刑事・史強(シー・チアン)。顔つきがお笑いのガレッジセール・ゴリとよく似ていて、どちらも日本人と見分けがつかない。かれらが立ち寄る食堂とか、居間での家族の団欒とか、いかにもアジア的だ。おかげで感情移入が否応なく強まる。

逆にいえば、今の日本の映画やドラマで、感情移入できるような役者がいかに少なくなっているか。かつてのジャニーズ系みたいな、なよっとした役者ばかりだ。

この于和偉(ユー・ホーウェイ)の演技だけど、最初はふざけ過ぎのように思っていた。が、シーズン1のエピソード5で、明滅する宇宙を見て錯乱する汪淼を救い、早朝の中華料理屋に連れてくる。一緒に浴びるように酒を飲む。料理をたらふく食う。「オレは日々の生活やら借金やらで手一杯だ。お前ら学者先生のように空を見上げて哲学的問題に頭を悩ませるヒマなどあってたまるか」と嘯く。宇宙の危機を前に苦悩する物理学者をバカにするような暴言を吐く。

中国民衆の代弁者を大げさに演じる刑事・史強を見て、最初は嫌な顔をしていたインテリ汪淼は、じつはこの粗暴な刑事が、自分のことをさり気なく力づけようとしているのだと、はたと気づく。

「お前は怖いんだろう。やつらはお前を恐怖で追い込もうとしてるんだ。が、それに負けてはダメだ。抵抗しろ。背筋を伸ばしてまっすぐ立っているんだ。ふだん通り仕事しろ。食え!」

このヘビースモーカーの刑事は、どこに行っても禁煙を要求される。社会は私たちを1つの鋳型に押し込めようとしている。それが「禁煙ファシズム」にもよく表われている。これにたいして彼は果敢に抵抗をくり広げる。それが彼の生き方の証左でもあることが、この小道具を介して暗示される。

喫煙は些末な一例にすぎない。粗雑で無神経そうに見えるはみ出し者の刑事だが、じつは彼なりに今の抑圧的な社会に抵抗を続けてきたのだ、という背景に気づかされる。于和偉(ユー・ホーウェイ)の演技が掛け値なしに素晴らしい。

この朝の料理屋でのシーンは、かれと張魯一(チャン・ルーイー)の渾身の演技合戦になっている。調理される料理がいかにも美味そうだ。この徹夜明けの朝に、角逐をくり返してきた学者と刑事は心からのパートナーになる。本作は両人のバディ物として楽しむこともできる。

とはいえ現代中国を舞台としているので、ふたりの関係にはもっと含意を読み込むことが可能だ。大衆的な中華料理が並ぶテーブルを前に、知識人と大衆との共闘および協働が示唆されている。立場は違えど、自らの存立を脅かす強大な敵と彼らは闘っているのだ。

「抵抗せよ!」と説く、本作のメッセージは疑いようもない。そして、それはたんに過去の文化大革命への怨恨でもなければ、現下の中国共産党への素朴な反発でもないだろう。問われているのは自由、とりわけ想像力の自由なのだ。

もっと大きな敵、手ごわい敵が地平の彼方に姿を現わそうとしている。それが間近に迫っているという事実に彼らは気づいている。ネフリの米国版『三体』は、この肝心なテーマに気づいていない。米国側の制作陣が気づくわけがない。というのも、地球を滅ぼそうとするエイリアンとは、むしろ彼ら自身の方だからだ。

2 政治的に正しい?米国版『三体』に呆れる

気になってネフリを再契約し、アメリカ版も見てみた。実際には『ゲーム・オブ・スローン』の制作陣が中心になって作られた作品で、色々な国のスタッフが参加している。

まず何より驚いたのは主役級の汪淼が若い女になってる!ポリコレに配慮して、「スターウォーズ」シリーズまでも主役を女にしてしまうご時世とはいえ、原作の小説の設定が改変というか改悪されている。中国版とは何から何までまるで別物だ。原作の味わいを仔細に楽しみたい者は、ぜひ中国版を見るべきだ。

上で見たように、中国版は物理学者の汪淼と刑事の史強のバディ物という側面がある。前者はもう中年で、医師である妻とのあいだに幼い娘がいる。職場でも家庭でも重い責任を担っている。むしろ、だからこそ異星人に狙われるのだ。

でも米国版の舞台はイギリスのオクスフォードで、同級生5人のオクスフォード・ファイブがチームとして活躍する。アメリカのハーバードあたりでは重々しい古い大学の雰囲気が出なかったのかもしれない。それならいっそMITあたりに舞台を置き換え、原作とはまるきり違った趣向にすべきだったと思う。中途半端に原作の設定をまね、却って馬脚を現わしている。

ネフリ版の主人公オギー・サラザール(エイザ・ゴンザレス)は同窓のジンとつるんで、やたら酒や煙草やドラッグをやり、何でこんな精神不安定なイキリ女が最先端のナノ研究所のトップを務めているやら、まったく訳が解らない。協調性の欠片もないし、だからといって天才的なリケジョのようにも見えない。

原作の真の主役と言っても過言ではないのが葉文潔(イエ・ウェンジェ)だった。文化大革命の折、物理学者の父を近衛兵により嬲り殺された彼女は、中国の体制のみならず、自然破壊を平然と繰り広げる人類社会の有り様に絶望し、これを深く憎み、人類など滅びてしまえ!とばかりに異星人と内通する。

中国版で若い時代は王子文(ワン・ズーウェン)、老いてからは陳瑾(チェン・ジン)が演じる。前者はどこか昔の薬師丸ひろ子を思わせる超絶美人であり、後者は老女とはいえ大学教授で、毅然とした佇まいをしている。立派な歳の取り方をした職業婦人であることが解る。だからこそ彼女の苦悩が想像を絶するものであったことが了解される。

ところがだ!米国版の方はたんなる移民のおばさんである。昔の写真を見て、「昔はお綺麗だったんですね」とジンに上から目線で言われる。それに対して「歳を取るのは残酷なものよ」と返すのだが、まさにこれって女性差別そのものではないか!女性科学者の容貌のことなど、どうでもいいではないか!

実際、中国版では女性の容貌のことなど一切取り上げられない。若い頃の葉文潔は純粋にその学識と能力により評価され、父の汚名にもかかわらず出世を遂げる。

後年の年老いた彼女を前にして汪淼が敬意を欠くことは一度もない。偉大な業績を残した先輩として心の底から尊敬しているからである。むしろそれゆえに彼女の正体に気づくのが遅れるのだ。

長い時間をかけて、ひとりの偉大なる知識人の悲劇的な生涯に接近してゆく過程こそが本作の文学的な醍醐味であり、大きな感動を呼び起こす源である。彼女の学問は密接に、そして深刻にその人生と結びついている。彼女の半生を理解することがその知性を、その決断を理解することに繋がる。

汪淼はそれを予感していたがゆえに、史強刑事のように手っ取り早く謎を解こうとはしなかったのだ。そうした慎重な態度を見て、汪淼自身が尊敬すべき真の知識人であり、だからこそ異星人に狙われたのだという事実を私たちは噛み締めることになる。

汪淼は葉文潔を決して女とも年寄りとも見ていない。同じ学問を専攻してきた先輩として、あらんかぎりの礼儀を尽くす。だからこそ最後の決裂が衝撃的になるのである。それをこの軽薄なアメ公のアバズレどもが!何が「昔はキレイだったんですね」だ!お前たちはひとを外見でしか見ていない。学問や知性への敬意など微塵も持ち合わせない。

アメリカの制作チームが作ったから下らないと言いたいのではない。原作の結構は優れているのだから、これを欧米を舞台に拡張して、もっと優れた作品に改変できたはずだと思う。冒頭の文化大革命のシーンだけは好いが、その後の敢えて作り変えた部分がどれも下らない。オクスフォード・ファイブの面々がひとりも魅力的ではなく、たんなる大学の仲良しグループのたぐいで、その子供っぽさにウンザリさせられる。なんでも群像劇にすればよいというものではないのだ!

3 『三体』における政治的なものの欠落

中国版は原作に忠実に作られたそうで、シーズン1だけで25話もある。じっくり見て行こうと思っていたが、夕方から夜中にかけてだらだら見続けてしまい、最終話の直前で「もう眠いし、我慢しよう」と、ようやく寸止め。残るは1話のみ。……と信じていたが、あらためて確認したら30話まであった!

なじみの女性ジャーナリスト・慕星(ムー・シン)を殺された際の刑事役・于和偉(ユー・ホーウェイ)の悲痛な演技が素晴らしい。本作のエモーショナルな部分をひとりで引き受けている。

地球連合軍をなぜか中国のしょもない将軍・常偉思(チャン・ウェイスー)〔林永健(リン・ヨンジエン)〕が率いている設定には、いささか鼻白む。国家作戦センターの会議には日本も、北朝鮮も、東南アジア諸国も参加していない。中国と欧米しか地球上には存在しないかのようだ。

1シーズン最後の古筝作戦で、ようやく怪しげな日本語をつかう軍人が出てくるが、かれの国籍はドラマでは明らかにされない。ほかの軍人たちにしても同様で、連合国軍というのを建て前として各自の国籍はあえて曖昧にされている。とはいえ、さすがにアメリカの存在だけは歴然としている。

中国のドラマなので中国の将軍が連合軍を率いるのはいいとしても、主席や首相といった国家の政治的な指導者が一切出て来ないのは不可解だ。地球存亡の危機だというのに何してる?政治的な描写がいくらなんでも空っぽすぎる。

おそらくは、そこまで踏み込むと作者の身に危険が及びかねないし、物語として複雑になりすぎるために回避したのだろう。思弁的な物語ということもあるし、そうしたリアリティの欠如には目をつぶるしかない。

(註)ちなみにネフリ版の古筝作戦では「親が人類を裏切った子供は殺しても構わない」と明言され、無残に皆殺しにされるが、誰もそれを罪だと感じていないようだ。まことに「人類は恐ろしい」。てかオーベーのやつらが心底恐ろしい。

とはいえ、中国版のシーズン1のラストの謎解きにはどうにも納得が行かない。陽子1個を紛れ込ませたぐらいで、どうして加速器が半永久的に使いものにならなくなるのか?物理学の研究そのものが途絶に至るのか?

てか、宇宙全体を明滅させるような幻像を見せるほどの超絶的な科学技術があるのなら、もっと簡単に人類文明を混乱に至らせ、破滅に導く方法があるだろう。400年もかけずに、すぐ地球に来い!

ま、それを言えば、科学者を狂乱に至らせ、自死に追いやるような手間をかける必然性も一切なくなる。物語自体が成立しなくなってしまうかも……

いずれにせよ、三星人のお人好しぶりには呆れるほかない。

4 「抵抗せよ!」と劉慈欣は言う

フランスの雑誌「ル・ポワン」による原作者・劉慈欣(リウ・ツーシン)へのインタビューの翻訳を、日本の雑誌「クーリエ」で読むことができる。

世界的なSF作家、劉慈欣が断言「これからの世界はもっと楽しくなる」
https://courrier.jp/news/archives/364623/

私の作品が好まれるのは、SFの黄金期だった1930~1960年代の米国で書かれたSF作品に似ているところがあるからなのかもしれません。その頃のSF作品のテーマは、未知の世界への冒険や科学技術の限界と可能性といったものでした。

世界的なSF作家、劉慈欣が断言「これからの世界はもっと楽しくなる」

かれによると、欧米のSFは社会問題ばかり大きく取り上げるようになって堕落してしまった。「いまのSFは私から見ると、SFなのかどうかもわからないものになっています」。かつてのSFの黄金期が主題としたような科学技術の限界と可能性、それを踏まえた上での未知の世界への冒険を自分の作品は扱っている。だから欧米で成功を収め得たのだ、と。

とりわけ「科学の限界と可能性」を主題としたのが大きい。なるほどそれは人類全体にかかわるテーマとなる。とりわけ作家が自然破壊と環境問題に警鐘を鳴らしているのは誰の耳にも届きやすいだろう。

『三体』が欧米で成功したのは、それが中国産のSF小説だったからではなく、むしろ人類全体をテーマにした小説だったからではないか、とも作者は述べる。

人類全体を取り扱う小説は決して多くない。というか、近代のリアリズム小説の理念に今なお純文学の作家たちは縛られていて、それだと外国人すらまともに描けない。

たとえば中国人を描こうとして、ラーメンでも食わせ、「とっても美味しいあるヨ」などと言わせるわけには行かない。小説中ではどうしても訛りのある日本語で何か喋らせる必要があるが、それをやると相手がバカのように見える。ギャグになってしまう。純文学ではなくなってしまう。その点SFだと誤魔化しが効くのだ。

いや、もっと言えば「人類全体」を描けるのはSFだけ、そしてサブカルチャーだけだと言えるかも知れない。たとえば石ノ森章太郎『サイボーグ009』は、サイボーグたちの国籍が多様で、たんに日本ばかりではなく人類全体を救おうとしていた。それはマンガやアニメだから出来ることで、純文学は母国語に閉塞せざるを得ない。と言うのも端的に言語を用いざるを得ない、言語しか用いることが出来ないからだ。しかるに今の世界の現実は個々の言語を超えている。

たとえば、戦場を支配するのは暴力であって言語ではない。あるいは、工事現場で必要なのは計算や計量であり、目測や測定であり、肉体や機械を使った労働である。

一般的に言って、労働現場で言語はさほど意味を成さない。そこで必要とされるのは、もっぱらルーティーンの遵守と習慣の護持だったりする。難しいことを考えるのは現場監督や設計者の務めだ。同様に、軍隊に命令を下すのは作戦参謀の任務であり、ひいては政治家の使命だ。言語はトップに立つリーダーに囲い込まれ、独占される。

近代世界を開拓してきた欧米社会は、この事実に鋭敏である。知の集積地である大学と政治との密接な関係を絶やさない。その後陣を拝するだけの日本やアジア諸国には、なぜ政治が大学知を尊重すべきなのか、さもなければ国家が衰退するに至るのか、その理由がそもそも理解できない。

言語により自らの内面を縷々刻々と書き綴り、かつそれを読むことに意味を認めるのは先進国の有閑階級――すなわち学者や知識人あるいは大学に通う若者の娯楽に過ぎない。仕事をすると本が読めなくなるのは当たり前だ。労働機械の歯車に読書は必要とされない。というか、言語すら不要と見なされる。現場では「黙って働け!」と言われる。教室では「黙って勉強しろ!」と言われる。言語は不要なのである。

純文学はそんな日常の共犯者である。それは現実を否認しつつも、秘かに現実に寄り添う。現実から飛び立ち、宇宙に飛翔できるのはSFだけだ。そのとき母国語は第二義的なものになる。

さりとて、上でも見たように小説という形式で「人類全体」を描くのはほとんど不可能だ。あらかじめ中国の読者を想定し、中国語で書く以上は、母国語から出発せざるを得ないし、幾度もそこに帰って来るほかはない。いやおうなく中国の歴史の特異性を問い返すよう迫られる。そして、まさにそれこそが原作の魅力にもなっている。

掘り下げられた特異性は否応なく普遍的なものに通じる。本作が普遍性を勝ち得ているのは、ひょろひょろした謎の三星人のSF的な描写によってではなく、現代中国という政治的・文化的土壌の直中で格闘する主人公たちの姿を描いているからで、その苦闘は必ずしも中国に限ったものではなく、ほかの多くの国に共通する闘いでもある。だからこそ「抵抗せよ!」という呼びかけはひとり中国の知識人に対してばかりではなく、ひろく世界人類の胸に届いたのだ。

劉慈欣(リウ・ツーシン)は、このように述べる。

世界のどの国にも、どの地域にも、それぞれ政治的な制約はあります。でも、どこにおいても大事なのは、研究者が自由に思考し、自由に想像力を働かせられる場を用意することなのです。それができているかといえば、必ずしもそうではありません。

同上

中国共産党の支配体制ばかり責め立てるのはお門違いで、実のところ「研究者が自由に思考し、自由に想像力を働かせられる場」が用意されているような場所は世界のどこにもない、と言っていい。そんな閉じた社会から開かれた世界への呼びかけ、それが真性の文学の使命であるだろう。未知なる存在への呼びかけとその応答というのは、本作の重要なモチーフだ。そのとき善き報せが返って来るとは限らない。開かれた世界とは、サルトルが恐れたように「他者の地獄」でもあるからだ。

アメリカ人は異星人が攻めてくるという強迫観念に苛まれ、ハリウッドのSF作品はこれを撃退するという物語ばかりだ。広大無辺の宇宙のなかで、かれら異星人はなぜか目ざとく地球を見つけ出してくれる。そして、さしたる必要もないのに暇つぶしに地球に押し寄せてくる。

本作が新しいのは、三星人の側が地球を侵略せざるを得ない理由を圧倒的な説得力を以て描いている点にある。VTRゲームという形で、三星人たちの宇宙の生滅を私たちはリアルに追体験する。

かれらの星系には太陽が3つあり、これが尋常ならざる動きをくり返し、いかなる方法を用いても、その動向を予測するのは不可能である。過去のあらゆる偉大な学者たちがゲーム空間に呼び集められるが、三体問題は解決できない。

太陽が規則的に昇っては沈む「恒紀」が続くのは稀で、思いがけず唐突に「乱紀」が始まると地上は灼熱の地獄や極寒の氷期に閉ざされ、とうてい生命を維持するのは不可能になる。三体星人は体の水抜きをして、ぺらぺらの一反木綿のようになって命を長らえ、つぎの恒紀を待つ。かつて11個あった惑星はことごとく太陽に呑み込まれ、残るはひとつしかない。いよいよ滅びの日が迫っている。三体星人は自らの宇宙を捨て、外なる星系にある地球を征服に向かう。

思えば、私たちの文明にしても、せいぜい数万年つづいてきたにすぎない。このところ巨大な彗星の衝突は至極まれだし、さほど大規模な地殻変動も起きていない。氷河期が終わったあとは比較的穏やかな気候が続き、地上に人類文明が花開いた。いまや太陽や星々の動きはほぼ予測の範囲内で、天文学者や気候学者の言うことは信用されている。そうそう天変地異など起きそうにない。

ところが3つの太陽に振り回される三体星人の宇宙は、次の瞬間にも太陽が消え去ったり、逆に極度に接近して地表を焼き尽くす予測不可能な世界である。その設定自体はいかにもSF的ではあるにせよ、もし万が一自然科学が発達していなければ、いまだに人類は雨乞いの祭りをやっていたことだろう。

宇宙全体の動向は私たちには計りかねる。太陽や彗星の動きにしても、いまだによく解っていない。天気予報は必ずしも当たるとはかぎらず、地震予知も人間の手には負えない。自然界のことも宇宙の動きも予測不可能だ。私たちの世界は本来的に不安定なのである。

なのに私たちは今この時に与えられた僥倖とも言える環境を永続的なものと見なし、後先を考えず自然破壊をくり返している。このことに作者は深い危機感を表明している。私たちには自らの文明を変革する能力など無いのではないか。外なる存在、未知なる存在へ呼びかける他に改革の糸口を見出すことなど出来ないのではないか。

5 物理学・哲学・神学における三体問題

本作は物理学の三体問題をVRゲームとして視覚化した上で、これをSF作品として昇華している。物語の核心に三体問題がある。これをじっくり謎解きして行く過程がSFとしての最大の魅力である。

原作者・劉慈欣(リウ・ツーシン)は、物理学上の三体問題について思弁的かつ哲学的に考察を深め、そこからSF小説の着想を引き出している。そこに本作の類例のない思想的な深みが生じている。それにより本作は近代というシステムの本質を問うに至る。

三体問題に取りつかれた若い天才数学者・魏成(ウェイ・チョン)にリアリティがある。演じるのは趙健(ジャオ・ジエン)で、庵野秀明によく似たオタクだ。いつもスナック菓子を食べている宇宙観測所のデブ・沙瑞山(シャー・ルイシャン)。演じる孔連順(コン・リエンシュン)にしても、いかにもオタクっぽい。中国の人気コメディアンだそう。役者の選択と、演出が完ぺきだ。

魏成は大学に入るまでは神童と見なされた。数が図形に見え、図形が数に見えるので、瞬時に問題の解答を導き出せる。数学科に進んだものの学業は退屈で、すっかりやさぐれる。やる気もなく、腑抜けた毎日を送っていたが、三体問題に出会って覚醒する。青春をすべて捧げてこの問題を解こうとする。が、最終的に論証は不可能だと思い知らされる。

三体問題をめぐる主人公たちの思索を見ていて、「これ、カントじゃん!」と、ふと気づいた。カント哲学は主体と客体、それをつなぐモノ(=像)という三項関係で出来ている。

ニュートン以来の古典力学において、天体の運行は神の意志やエーテルの運動などではなく、相互作用し合う万有引力により決定される。たとえば、地球と月の運動を解明するには太陽との関係も見なければならず、太陽―地球―月という3体問題を解かねばならない。ところが、これが至難の極みである。

2体間の運動なら高校までの物理数学で解けるが、事項が3体になったとたん、問題は極度に複雑化する。ポワンカレが3体問題の証明が不可能なことを論証したが、それは限られた観点からの証明にすぎず、いまだにこの問題に取り組んでいる人たちが少なからずいて、これがカオス理論などに結実している。

思えば、事象を3項で捉えるのは近代の科学や哲学の根底にある見方で、この構造を誰よりも鋭利に分析し、定式化したのがカントだったと見なすことができる。かれは元々天体物理学者だったし、その宇宙論は18世紀においては先進的な理論だった。三体問題も当然知っていただろう。

カントはいわば哲学における三体問題を手を変え品を変えて分析し、あたかもそれが解決可能な問題であるかのように振舞った。宇宙論を禁止し、閉鎖した公理系においては三体は静止的な画像の重ね合わせにより解析される。この体系を背後で動かしている手品のタネは「物自体」である。

物自体とは、一見すると人間知性には到達不可能な至高の境地のようでもあるが、一方それは私たちの身体そのもの、環境そのものでもあるので、私たちにとっていちばん身近な存在様態でもある。この両義性の戯れをカント哲学は自らの体系の深奥に隠し持っている。むしろそんな戯れこそが超越論的な構造を形成する当のものである。

こうした結構では三体問題は解けない。論証不可能である。これに気づいたのがベルクソンで、開放的な動態を形成する多様体の理論を哲学に導入した。その画期的な意義がいまだに理解されていない。三体星人が宇宙に飛び出したように、ベルクソンもまた近代哲学の体系の外に足を踏み出したのである。

動かない絵を動かすために、カントはあらゆる角度から膨大な分析を積み重ねる。いわば哲学的なアニメーションをドイツ語によって作り上げようとしたのである。それは不可能な試みだった。言語によって動態を十全に表現するのは不可能だ。あたかも古代のディオゲネスのように、ベルクソンはカントが緻密に描いた絵の前をぶらぶら歩いて見せたのだ、と言うこともできる。

もっと言えば、これはキリスト教の三位一体論とつながる問題だと私は考えている。キリスト教徒は父と子と精霊の聖名においてアーメンと祈る。父は神、子はキリストであり、両者を結ぶのが精霊である。この3者がいかなる形で繋がっているかを問うのが三位一体論の要諦だと言える。そして、その解釈には際限がない。神学論争には原理的に終わりがない。

たんに神学的な議論にとどまらず、世界を超越論的な構造から理解せんとするとき、カップリングされる2項と、それを超越論的に包摂する第3項という関係性が必ず問われざるを得ない。神を超越的で不可知なものとして押し頂くとき、私たちはたんに地上における2項の関係性を問えば済む。第3項は排除され、抑圧される。これは哲学的にいえば第3項排除という問題である。

しかるに神を実在の次元に引き下ろすとき、あるいは『三体』のように《神》が私たちの元に侵入してくるとき、3項の関係はきわめて流動的になる。そのとき私たち自身が不可知の存在となり、未知なるものへと化す。ことによると、それこそが私たちの世界の原―構造であり、それゆえに三体問題が神学的な深みを漂わせる由縁かもしれない。

ここにはライプニッツが提起した排中律 (Principe du tiers exclu)の問題がある。ミシェル・セールはこの問題をその膨大な著作で不断に問い続けた。

6 新しい文明の可能性に賭ける――劉慈欣インタビュー

先ほど紹介したインタビューで、劉慈欣は次のように述べている。

いまの人間社会では、大規模な戦争はかなりの程度、起きなくなり、比較的平和な時期が続いていますが、それは長い歴史を通じて人類が成熟、成長してきた成果です。それでもすべての問題が完璧に片付いたとはとても言えません。

同上

第2次世界戦争が終わってからしばらく経つ。比較的平和な時代が続いてきた。にもかかわらず、依然として世界戦争が勃発する危険は残っている。というか、いまや世界戦争の危機がいよいよ迫っている。

私たちは自分のことを成熟した大人であるかのように勘違いしているが、じつのところ自らの本性を克服したとはとても言えない。私たちの内には野生が眠っていて、それはいわば内なる子供のようなものである。機会があれば外に飛び出そうと狙っている。

私たち人類の経験値はかなり上がったけれども、足を掬われるおそれがつねにつきまとうのです。人間の本性が、再び表に出ようとつねにチャンスを窺っているわけですからね。子供はゼロからスタートする人間ですから、その意味では、子供は自然な人間に近いのです。

同上

人類は自らの文明の進化の過程を直線的に見ようとする性向を持つ。ところがそれは「大人」の見かたに過ぎず、自らの内なる子供、自然人のことを計算に入れていない。子供は大人の思惑を超えて跳ぶ。文明は数々のジャンプを経てきた。むしろ飛躍こそが常態だと言えないこともない。進化とは命の跳躍である。

未来を見通したいなら直線的に物事を見てはなりません。画期的な技術の登場はそれ以前のイノベーションの延長線上で起こるのではない。蒸気機関の後に電気が登場し、それからITの時代が訪れましたが、ITは蒸気機関から派生したものでも電気から派生したものでもありません。

同上

今この時の延長線上に未来が生じるのではない。未来は不意打ちのように私たちの元に訪れる。そんな未来を見通したいのであれば直線的にではなく、思いもかけぬ彼方にいつも視線を奔らせねばならない。それには自由な想像力が何より肝要だろう。

自分のように1960年代に生まれた中国人は、人類史において数多の激変を経験し、目撃してきた。だからこそ自分は未来に前向きなのかもしれないと劉慈欣は言う。

なるほど人類はこれから無数の壁にぶつかり、間違いをおかし、悲劇を経験するに違いありません。それでも私は未来が楽しい世界になると確信しています。文明や人類の前に広がる可能性がそれこそ無限だからです。

私たちが想像したこともないような奇跡を起こしていかなければなりません。まったく知りもしなかった新しい生活も始めなければなりません。そんなことを思うと、私はワクワクしてしまうのです。

同上

真正の悲劇を体験した者だけが、逆説的ながら人類と文明の可能性を信じることができる。未知なる新しい生活、新しい可能性を構想することができると、ここで彼は自らの信念を語っているのである。

その果てには最終的な問いが待ち構えているはずだ。

自分のゲノムをいじって不死を達成できるようになれば、人間とは何か、人間はなぜこの世界に存在するのか、人類の未来はどうなるのか、といった問いを再考せねばならなくなります。

同上

もはやかつての近代文学のように、ひとつの国家や社会における人間関係やら政治やらを描くことに意味はない。ひとつの言語のなかで物語を語ることには圧倒的な限界がある。私たちは人類全体について、その運命について思索し、いくつもの言語で語らねばならない。映像や動画で表現せねばならない。地球のみならず宇宙をも包含するほどに想像力の翼を広げねばならない。

中国版の『三体』も、米国版のそれも続篇の制作が決定している。原作『三体』は3部作である。中国版『三体』は第1部だけで30話を必要とした。私としてはネフリ版にはほとんど興味がない。期待できる要素がそもそも全然ない。中国版の第2部に期待したいところだが、公開はいつの日になるか解らない。チャン・イーモウによる映画版の制作が公表されているが、この監督がこうした思弁的なSF作品をまともに撮れるとは信じられない。

ならば原作を読めばいいではないかと思わぬでもないが、中国版のドラマがあまりに好かったので、このキャストで続きを見たいという気持ちを抑えられない。中国よ、戦争どころではない。動画を撮れ!

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