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人がバラを好むのは


人がバラを好むのは、
バラが、私たちの睡眠中に、
私たちの幼児期の最初の思い出を受け取ってくれるからなのです。
そのことを知らなくても、そうなのです。


1923年11月25日

ルドルフ・シュタイナー「遺された黒板絵」P43


ルドルフ・シュタイナー(1861 - 1925)
Wikipedia





 毎年春と秋にフェアが開催されている市内のバラ園では、いつもと同じ場所に同じ薔薇が咲き、同じ香りが漂っている。
 しかし種類は同じでも、まったく同じ花は一つもない。それぞれの花は、とても個性豊かに咲いている。大きさ、形、色も違う。すでに枯れてしまった花もあれば、これから咲き始める花もある。

 一期一会。
 沸き立つ喜びと、もの悲しさの入り混じった想い。
 それは毎年訪れていても、出会うたびに、ささやかな感動を呼び起こしてくれる。

 じっと見つめていると、花の薫りが外へ漂うのとは真逆に、その想いは花弁の奥に隠れた小さな静寂の中へと、吸い込まれてゆく。






 花の美しさに、感嘆のため息が漏れることはあっても、それを言葉にして表現することは難しい。写真に撮ることも困難だ。

 「美しさ」の秘密は、眼には見えないその奥にある。花びらをむしっても、そこには何もない。人ができるのは、言葉や写真を駆使し、「それ」がそこにあることを指し示すことだけだ。 

 花は、人の言葉や写真のことなどまったく気にも留めず、ひっそりと咲き、数日のうちに、泡沫の夢のようにただ消えていく。

  何とかして、数日間だけ繰り広げられる、薔薇の神秘に近づこうとファインダーを覗き込む。もしかしたら今度こそ、「それ」に近づけるかもしれないという淡い期待と共に。

 薔薇サン、コンニチハ、オゲンキデスカ。

 目と目が合い、微笑みが返ってきたようなその一瞬、息を止めてシャッターを切る。






 今からおよそ100年前、ルドルフ・シュタイナーは、教室の黒板にチョークを使った色彩豊かなドローイングをしながら、受講生徒たちに向かって、宇宙、地球、生命、人間などについて語っていた。

 この黒板絵と、その絵にまつわる講義をまとめたものが、「遺された黒板絵」という本に収められている。

「人がバラを好むのは、バラが、私たちの睡眠中に、
私たちの幼児期の最初の思い出を受け取ってくれるからなのです」

    その言葉から、シュタイナーはいったい何を伝えようとしていたのだろう。こんな不可思議的なことを言う人は他にいない。

 いや、それは隠喩とか空想ではなく、その言葉の額面通り、そのまま受け止めるべきことなのかもしれない。






 幼児期の最初の思い出    
 振り返ると、覚えている最も古い記憶は、赤ん坊の頃のある朝のこと。

 母は、座布団の上に寝かされている赤ん坊の私を、僅かに持ち上げ、その下に厚手の布をごそごそと差し入れる。次に、背を向けながら、母はひょいっとその布ごと担ぎ上げる。すると私の小さな体は、あっという間に母の背中に張り付いた。

 布についた紐を母は自分の体に巻きつける。そうすると私は、母がどんな動きをしようとも落ちることなく、一緒になってついてゆく。

 私は言葉をまだ知らなかった。
 しかし気持ちとしては、
 「また、今日もはじまった」
 というような思いを抱いた。

 母は毎朝、まず掃き出し窓を全部開け、それから部屋の掃除やら、洗濯やら、家じゅう動き回りながら、黙々と家事をこなした。その動きに合わせて、私の小さな体も、右に左に一緒になって揺れ動く。

 その光景の一部始終を、母の肩越しに、私はただじっと見つめていた。

 だんだん眺めることに飽きてくると、時々、母の首筋についていたホクロを、小さな人差し指でそっとなぞり、その感触を確かめるようにして遊んだ。






 こんなたわいもない赤子の思い出を、薔薇の花はどうして受け取ってくれるのだろうか?

 シュタイナーは別の日の講義中に、こんなことも言っている。


すみれは何をするのでしょうか。
すみれのすべては鼻です。
たとえば、水星から流れてくるものを、すみれは非常によく感じ取ります。
そのように、植物界のどの存在も、
惑星界から匂ってくるものを感じとっています。
そして植物からは本当に、
天の匂いが私たちの方へ向かって薫ってくるのです。

1924年8月9日

ルドルフ・シュタイナー「遺された黒板絵」P41 







 植物が、惑星界から流れてくるものを感じとれるほど繊細ならば、同じ地上に暮らす人間の気持ちなど、いとも簡単に察知しているに違いない。

 薔薇は私たちの睡眠中に、幼児期の最初の思い出を受け取ってくれるという。それは幼児期の最初の思い出が、とても純粋で、汚れを知らず、宝石のように輝いているものだからではないか?

 赤ん坊の無垢な瞳は、何の思考も判断も曇りもなく、ただ目の前に繰り広げられる此の世の光景を、ありのままに、ただじっと見つめている。

 目の前に起こる出来事に、嬉しいときは笑い、悲しければ、ただ泣く。そこには嘘偽りはなく、抑圧も演技もない。

 花もまた、限りなく純粋だ。美しいという言葉では到底説明できないほど美しい。
 薔薇の花もまた、まるで赤子のように笑い、泣くように咲いている。
 薔薇の花と、私たちの幼い思い出は同調し、共鳴し、共感し合う。




 きっと薔薇の花たちは、大人になった私たちの中に、幼い頃の純粋さを嗅ぎ分けているに違いない。

   人間性の成長とは、環境に如何によりよく適合するかだけではなく、与えられた環境の中で、生まれ持ってきた原石のような魂の輝きがより磨き上げられてゆく、ということではないかと思う。

    その原石は、人格や条件付け、私利私欲などで覆われると見えなくなってしまう。私たちにとって、その原石とは言わば存在の核心。自分の過去生を調べると、何度生まれ変わろうとも、それは決して変わらない自分自身の魂のエッセンスとして、受け継がれていることが分かる。

 自分自身を見つめるということは、自分の思考や感情を見つめるというよりも、本来、この純粋さを見つめることだと思う。





 私たちが薔薇のかぐわしい香りに恍惚とした喜びを覚えるのは、私たちの中に、その純粋さが失われていないからだろう。

 花びらに鼻を近づける。
 ほんの数秒間の、芳しい薔薇の薫り。
 その時、私たちの意識は、此の世の一切の記憶を置き去りにする。
 そして此の世に並行して存在する、天の至福を味わう。

 天が遠い宇宙の彼方にあるのではなく、私たちの暮らしのすぐ隣にあることを、薔薇の花たちはそっと指し示してくれているように見える。

 そして天の入り口は、花びらの奥にあるのと同じように、私たちの心の奥にあるのかもしれない。





神々が宇宙を見ようとするときには、
月を通して見ます。
神々が地球から宇宙を見ようとするときには、
人間を通して見ます。
人類は神々のもうひとつの眼なのです。


1924年5月30日

ルドルフ・シュタイナー「遺された黒板絵」P125


ルドルフ・シュタイナー「遺された黒板絵」
ワタリウム美術館 監修
高橋巌 訳
筑摩書房 刊




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北九州市 響灘グリーンパーク



































































































Original Piano ー「凛」 ( Beautiful Mind)
Akiko Akiyama Piano Relaxing




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