夜の帳が下りる頃
夏がなかなか終わりを見せない。こういう時は夜の街歩きが心地いい。夜風が火照った街の空気を絡めとりながら、何処へともなく通り過ぎていく。
数回前の記事に、我が街のアーケード商店街ではシャッターを閉じた店が並ぶ一方で、新しい飲食店もよく見かけるようになった、というようなことを書いた。
梯子酒なんてことはこれまで一度もないが、商店街をぶらぶら歩きながら店構えを眺めたり、店内の様子をそっと覗き見したりするだけでも、結構暑さを忘れられるひとときになる。
店の多くは間口が狭くこじんまりとして質素である。古いアーケード商店街の店舗を改築して使用しているためだ。
しかし笑い声が外にまで聞こえるような活気を感じると、入ったことがなくてもきっといい店なんだろうなと勝手に想像し、どことなく嬉しいような気分になる。
一極集中、人口減少、少子高齢化によって地方のシャッター商店街が広がる中、まだまだここには笑いと元気があるんだぞと誇らしげな気持ちにさえなる。
🥂🏕️🍴
照明の灯りが艶やかに輝く夜の街を眺めていると、20代の頃ペンションの住み込みアルバイトや、東京原宿にあったカフェの雇われ店長、或いは東京都内のホテルやレストランでの配膳人など夜仕事に従事していたときのことが蘇る。飲食店の明かりに、妙に親しみと懐かしさを覚えるのはそのためだ。
70年代から80年代にかけて日本はペンションブームの真最中だった。旅の宿泊先にペンションを選ぶというよりも、ペンションに泊まること自体が旅の主目的となっていた。
愚生もまた20歳位の頃、福島県裏磐梯にある馴染みのペンションに友人と連れ立ってよく出かけた。夏の繁盛期に突然訪ねても屋根裏部屋に泊めさせてくれたりもした。
このペンションのオーナーは当時20代後半の若い男性で、かなりユニークな人だった。料理や清掃などの業務はすべて奥さんとスタッフに任せ、彼はひたすら接客に専念していた。
別名「寝せずのペンション」とも呼ばれていた。夕食が終わるとオーナーはダイニングルームの客席におもむろに座り、宿泊客と一緒に酒を飲みながら様々な種類のテーブルゲームを始める。しかしすべてのゲームに熟達しているため、誰を相手にしても決して負けない。客は徐々に頭に血が上り、勝つまで挑み続けようという気になる。
夜中になって客が降参すると、今度はギターを弾いて歌い出す。落ち着くとまた飲む。じゃあ次はみんなでダンスを踊ろうと言い始める。それで結局夜明け近くまで寝ずに過ごし、酔いつぶれたオーナーを部屋のベッドまで運んでようやくお開きとなる。どっちが客だか分からない。
翌日オーナーはそのまま客と裏磐梯の広大な自然の中に繰り出す。ボート遊びや釣りをする。真冬はスキーや凍った湖上でワカサギ釣りをした。
50年近く経った今でもこのペンションは健在であり、オーナー夫妻も大自然を満喫しながら元気に過ごされているようだ。
後にアジア諸国の放浪の旅から帰国した際、とりあえず何か仕事に就こうとして思いついたのがペンションの住み込みアルバイトだった。
週に一度出版されていたバイト情報誌を発売日の朝8時に駅の売店で買い求めた。当時は全国津々浦々、多くの募集が掲載されていた。その中にあった小さな情報に目が留まった。栃木県日光市の霧降高原というリゾート地にあるペンションだった。すぐさま電話し、履歴書を郵送した。
後でオーナーから話しを聞いたが、その時に応募してきたのは30名。電話の応対や、履歴書を見て判断するのではなく、一番最初に電話をかけてきた者を採用しようと初めから決めていたそうだ。
そのペンションは当時7,000件あった国内のペンションの中で、年間宿泊者数第3位に入る超人気宿だった。(ちなみに1位は清里、2位は那須高原にあるペンション。) つまりとんでもなく忙しいペンションだった。
アーリーアメリカン調のお洒落な外観、13部屋それぞれ趣向の異なるインテリアデザイン、そして何よりもフランス料理のフルコースが評判だった。
30代の若いオーナー夫妻と3人ですべての業務をこなした。朝7時から夜10まで、朝夕食、部屋と館内の清掃、ベッドメイク、送迎、予約電話の応対、夕食後の客相手などに日々追われた。
オーナー夫妻は先ほど登場した「寝せずのペンション」とは真逆だった。宿泊客とは必要最低限の会話以外ほとんどしたことがなかった。滞在中は自由に過ごして欲しいという想いがあったからだ。
オーナーは都内にある有名フレンチレストランで数年間修行した後、20代の終わり頃にペンションを開業した。
そのレストランのオーナーシェフが物凄く短気な性格だったという話をよく聞かされた。腹を立てると、罵声と共にすぐ調理器具が厨房の向こうから飛んできたという。横に立っている場合は足蹴りを喰らった。当然のことながら、新入りの調理師のほとんどがすぐに辞めていった。
そうした苦境を乗り越えペンションの開業にこぎつけた時、その師匠はたいそう喜んだ。数日間自分の店を休みペンションに泊まり込んで、徹底的に料理を指導してくれたという。まさにホンモノの師匠だった。
しかしながらオーナー夫妻は、ずぶの素人だった愚生に対しては怒ったり注意するということが一度もなく、また嫌な顔を見せたこともまったくなかった。伝えるべき話は感情を持ち込まず淡々と丁寧に説明してくれた。それどころかどんなミスをしても、まるで面白い話を聞いたかのようにいつも楽しそうに笑った。
送迎用に新車で買ったワンボックスカーを愚生が慣らし運転せずにかっ飛ばし過ぎた挙句、走行5,000kmでエンジンを破壊したことがあった。初期不良ということで無償のエンジン交換となったが、数週間オンボロの代車による送迎を余儀なくされた。そういう時でさえ、ただただ大笑いをするだけだったのだ。
ペンションでは他にもいろいろと思い出がある。
休日になると、オーナーの4WD車やオフロードバイクを借りて、奥日光の四季を隅々まで一人で探索した。
ある時、山奥の林道で崖崩れのために車が立ち往生し、身動きがとれなくなった。車をそのまま林道に残し、真っ暗闇でしかも濃霧の山道を朝まで歩いて戻った。車は翌朝近所のペンションのオーナーにも手伝ってもらい、ジープで引っ張り出した。これも笑いの対象となった。
またオーナーのお兄さんが地元で有名な進学塾を経営していた。ポルシェを2台所有していたのだが、どちらも好きに乗っていいと言ってくれた。調子に乗って夜中に日光いろは坂を飛ばし過ぎてスピンし、道路脇に立つ標識の柱にぶつかり部品の一部を損壊させてしまった。これは流石に笑えなかった。
それでもお兄さんは高額な修理代の半分を立て替えてくれたのだ。
その後日光の美しい自然を背景にしてポルシェ2台の写真を撮り、大きなパネルにして塾の教室に飾ってもらった。
休日のオーナーはよく奥日光へ釣りに出かけ、奥さんは自室にこもり、ひとりで寛いでいた。とても仲良し夫婦だったが、それぞれのプライベートな時間を尊重することはいつも徹底していた。
夏のシーズンは連続50日間休みなく働いた。その分オフシーズンになると有給で1カ月間の休みをもらい、再びアジアの国へひとり旅に出かけた。旅の写真はスライドにして夕食後厨房の白い壁に映写して見てもらったりした。
オーナーが都内に一泊で出張するときには、となりで奥さんが見守る中、フレンチのフルコースを自分一人で調理した。普段オーナーはフライパンの縁をよくレードルで叩くという癖があり、それをそっくりそのまま真似したら、奥さんが爆笑してくれた。
大きな炊飯ジャーに米を計って入れるのも自分の担当だった。男性客の人数の割合や年齢層、そこに自分たちの賄食などを含めた分量を割り出す計算式を考案し、それを小さなメモに書いて厨房の壁に貼っていた。辞めてから10年後に訪ねた時にも、そのメモがそのまま同じ壁に貼られていた。米の分量計算に役立っていると笑っていた。
また様々な出版社から取材が来ていた。主に女性週刊誌やペンション情報誌などだ。ところがある時、ペンションではなく、愚生が取材の対象となった。
「あのペンションには変わり者のバイトがいる」という噂が地元のペンション組合で話題となり、それが出版社の耳に入った。
ペンションの仕事内容やオーナー夫妻の印象について、或いは海外放浪の旅や将来の夢などについてインタビューされ、大きな顔写真と共に掲載された。見開きページのタイトルには「僕の旅はまだ始まったばかりだ」という当時の流行りのような言葉がついていた。それを見た読者の何人かが応援メッセージのような手書きの手紙を送ってくれたり、また宿泊予約をしてくれた人も何組かあった。
同じ敷地内には奥さんのご両親が貸別荘を営んでいた。お二人とも指圧ができる人だった。体の調子が悪くなると施術してもらい、終わると調子が戻りすぐに仕事に復帰するということが何度かあった。この経験がきっかけとなってヒーリングワークに興味を持ち、10数年後には自分で施術の仕事を始めることに繋がった。
夜9時半に夕食後のカクテルタイムのオーダーストップとなり、10時にダイニングルームと厨房の照明を消すと、ようやく一人きりの寛ぎタイムが待っていた。オーナー夫妻は毎晩いつも早々に自室に戻った。
静まり返ったダイニングルームの窓からは庭の白樺の樹が見えた。初夏の新緑と秋の紅葉が美しかった。雪夜の幻想的な風景も忘れられない。
街の灯りは遠く、夜の森は闇が深い。冬になると近所に熊が出没した。夜空には満天の星が輝き、透き通った夜風がテラスを吹き抜けていった。
ダイニングに隣接したリビングルームには、ハイエンドオーディオ機器と数千枚のジャズやクラシックのLPレコードが収められた棚が所狭しと並んでいた。
部屋の四方に置かれたスタンドライトの明かりがステージの照明のように部屋を明るく照らし、その中でジャズの巨匠たちが奏でるLPレコードの音楽を毎晩聴いた。まるでライブのように瑞々しい音色は力強く、暖かく、かつ繊細だった。一日の疲れを癒し、心の迷いを吹き飛ばし、魂の自由を垣間見せてくれた。
どこの馬の骨だか分からない風来坊のような若者を家族以上に大切にしてくれた人たちは、今でも心の宝のような存在である。
経済成長期の怒涛のうねりの中で、先行きがまったく見えずに暗中模索が続いていた20代の自分にとって、ここでの経験は楽しい思い出だったというよりも、自分自身の信念を貫いて生きることの大切さ強さを学ぶ機会となった。
「何が何だが分からなくていい。
己の信ずるがまま、恐れずに暗闇の中を突き進め」
そう言われているような気がした。
誰かが幸せと安心を届けてくれるなんてことは有り得ない。
嘆いているだけでは進まない。
祈るだけでも不十分だ。
何が起ころうとも深刻になり過ぎず、他者を尊重し、生きる喜びを見つけ、自ら光となり行く道を照らす。
笑いを忘れない。
笑えない位に辛く悲しいときには、涙が枯れるまで思い切り泣けばいい。
泣けないのなら、誰もいないところで叫び続ける。
叫べないとしたなら踊り狂う。
踊り狂えないなら歩き続けよう。
笑えるまでは何でもやろう。
オーナー夫妻は70歳を超えた現在も、ふたりでペンションを営んでいるということを先日宿泊予約サイトを見て知った。
夜の帳が下りる頃、きっとリビングルームには今も暖かな明かりが灯っているに違いない。
北九州市 黒崎駅前商店街
お疲れ様です
素敵な夜をお過ごしください