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青葉繁れる阿蘇九重



 九州も新緑の季節を迎えた。未だ見ぬ大自然の景色を求め、久しぶりに「阿蘇くじゅう国立公園」へ一泊二日の小旅行に出かける。ところが二日間とも予定とは異なる思いがけない風景との出会いが待っていた。




 熊本インターを降り、ひたすら東へと向かう。目指すは若葉色に染まる草千里と阿蘇山を望む展望台。運転中、ふと東の空を見上げると、どんよりとした曇り空。このまま行けばおそらく阿蘇山は雲の中だろう。
 そこで急遽予定を変更し、近くにあった熊本県阿蘇郡高森町にある「上色見熊野座神社かみしきみくまのざじんじゃ」へ向かうことにした。

 目的地が近づくにつれ、景色は新緑に覆われた美しい草原へと変貌する。急峻な山々が突如目の前に現れ、若葉色の樹海に覆われているのが見える。
阿蘇地方のダイナミックな自然界のエネルギーがひしひしと押し寄せてくる。

    国道に面した駐車場に車を停め、少し戻った所にある一の鳥居をくぐると、そこはもう深い森の入り口、異界の始まりだった。

 緩やかな坂と階段が交互にやってくる参道。両側に97基の大きな石灯籠と杉の巨木が奥へ奥へと誘うように立ち並んでいる。静まり返った森に響き渡る透明な野鳥の声。神域の深みへと吸い込まれるように歩みを進めると、辺りは一段と薄暗くなっていく。

 参道は緩やかにカーブしているために、先も、後も見えない。
 見えるのは今ここの足元。
 立ち止まる度に、周囲の幽玄な異世界に思わず息を呑む。

 長い坂と300段近い階段を上がったところで、ようやく総けやき造りの拝殿に辿り着く。だがそこが終点ではなかった。その横を抜けたところに、さらに奥ヘと続く急な斜面が見える。熊本地震でまっすぐに昇る急な階段は崩れ、迂回路に新しい階段が設置されていた。

 やがて目の前に巨大な岩尾根が現れた。
 「穿戸岩うげといわ」と呼ばれる巨岩だ。
 その一部に大きな天然洞門が開いている。

 暗い森の中から見上げると、洞門の向こうに広がる空だけが真っ白に輝いている。あたかも神々しい巨大な鏡、あるいは光の塊として宙に浮かんでいるようにも見えてくる。

 この洞門の中に入ってみると、半月型の開口部の上部は岩肌が露出しているが、下部には附近の土砂が長い時間をかけて大量に流れ込んで厚く堆積し、岩肌が見えない状態となっている。
    つまりこの洞門ができた当初は開口部が今より大きかったはずだ。となれば昔は今の半月型ではなく、もっと円形に近かったのではないかと推測できる。
    この神社のある上色見大村地区では、古くから穿戸岩を尊いいわおとして、また洞門を稀有な存在として信仰し崇める伝統があったとのこと。一般的な神社の本殿には神霊のご神体として丸い神鏡が祀られている。この上色見熊野座神社では、岩と光る洞門が御神体であり、昔はまさにそれが巨大な丸鏡に見えていたのではないかと思う。

 巨大な「磐」と「神鏡」。

    深い暗闇のような森の参道を一歩一歩昇り詰めること、それはあたかも産道を潜り抜けていく赤子のようなものであり、また「現し世」を生きることの比喩でもあり、或いはその先に現れる光は、魂の遍歴の後に見出す「常世」の存在を暗示するものとも見えてくる。

 参道の風景も、洞門の形も随分と昔とは変わっただろう。しかし洞門の中の「光」そのものは昔も今も変わらない。
 神聖なるもの、それが人の本性を写す鏡となる。あらゆる神社に神鏡が祀られているのはそのためだ。その普遍的な存在と出会うとき、人の心の動きは止まり、浄化と癒しが起こる。

    この神社は安寧のための祈祷の場として造られたのではなく、人生の道程を指し示し、その先にある神聖なるものとの出会いによって起こる自身の静寂のひとときを、後世にも残そうとして創られた「伝承と癒やしの場」だったのではないか。


上色見熊野座神社

神社の創建は不詳。
御祭神は伊弉諾命いざなぎのみこと伊弉冉命いざなみのみこと





参道脇に咲いていたウラシマソウ(テンナンショウの仲間)












































■おすすめの宿

 今回、旅先での宿として予約したのは、大分県玖珠郡九重町筋湯温泉にある「山あいの宿 喜安屋」。
 近隣エリアには黒川温泉や由布院温泉、別府温泉といった全国的にも有名な温泉地がずらりと並ぶ中、こうした山間にある数軒だけの新興温泉地には、リーズナブルな小規模の宿が点在している。

 美しい森に囲まれたこの宿は離れの和室10部屋のみ。中高年中心のスタッフ6名の方だけで切り盛りしている。いつも窓の外で野鳥が鳴いている居心地の良い部屋、心のこもった地産地消の山里料理、良質な客室露天風呂など、高級旅館に引けを取らないどころか、むしろよりきめ細かなサービスを享受する癒しのひとときとなった。








































■移動途中に出会った風景と野草

    移動途中、ナビの目的地設定を変えようと道端に車を停める。ふと車の横の草むらに目をやると、小さな花の姿がちらりと見えた。
 車を降りてよく見ると、そこは様々な種類の野草の花畑だった。



オドリコソウ



キランソウ



ツボスミレ(ニョイスミレ)





トウバナ



フウロケマン



ギンリョウソウ







 
 小旅行二日目、向かったのは熊本県小国町にある「鍋ケ滝」。滝の裏側にある洞窟から見える幻想的な景色が有名だった。

 ところが途中で「鍋ケ滝見学は完全予約制」と書かれた看板を目にする。そんなことは終ぞ知らなかった。当日でもネット予約が取れるとのことだったが、そこまで混雑するような人気スポットならば、落ち着いて写真も撮れないだろうと判断。再び目的地を変更することにした。ところがその結果、またしても感動的な光景との出会いが待っていた。

 再設定した目的地は熊本県阿蘇郡南小国町にある「押戸岩の丘」。

 離合困難な悪路を抜けた後、徒歩で標高845メートルの丘の上に登ると、周囲360度、青葉繁れる大パノラマが広がっていた。晴れていれば阿蘇山から九重連山に至る国立公園一帯のさらに雄大な景色を見渡すことができただろう。
 他に訪れていた観光客は二組のカップル合計四人。風の音すら聴こえない圧倒的静寂の丘だった。
 


   
 ここには先史時代に人工的に配置されたとされる巨石群が並んでいる。
 巨石から強力な磁気を発しているものもあり、実際に方位磁石を近づけてみると針がぐるりと回転した。

 平成元年2月、南小国町教育委員会が一部の石に「線刻文様」を発見。専門家による調査の結果、それは4000年前のものとされるシュメール文字(ペトログリフ)だったことが判明する。
 
 最近、動物とコミュニケーションがとれるサイキックな人が随分と増えたようだが、以前、石との会話ができるという日本人に会ったことがある。
 宝石のみならず、すべての石は非常にデリケートなバイブレーションを発しており、中にはゆっくり時間をかけ、丁寧に言語化することでコミュニケーションがとれるものもあるとのこと。とても古い時代の情報を伝えてくれるらしい。

 この押戸岩の丘の巨石群を並べたのも、そうしたサイキック能力に長けていた人たちではないかと想像する。
    世界中に存在する巨石遺跡と同じように、ここでも太陽や星の周期的な運行と密接に関わる意図的な配置をとることによって、石から発振されたバイブレーションを増幅し、何らかの重要な目的遂行の為に利用されたのだろう。


    日本にはヨーロッパにある巨石遺跡にとてもよく似たミステリアスな遺跡が存在する。
 国内で発信されている「都市伝説」という不可思議なレッテルを貼られた怪しげに見える情報の中には、考古学や海洋考古学の分野では完全否定されているケースもある。学者や権力者にとっては既知の歴史を塗り替えられては困る人も当然いるだろう。

 しかしながら最近、海外の研究者の間ではそうした日本の遺跡がとても注目を集めているのもまた事実。

 古代から今日まで続く「日出ずる国」の神秘の数々。
 これほど多くの神社が日本全国にあるのは何故か。
 私たち日本人はどこから来て、どこへ向かおうとしているのだろう。
 シュメール人は何故はるばる日本にまでやって来たのだろうか。
 1万年以上昔のこと、天変地異によって世界中の海岸線が150メートル上昇した。
 「ムー」とは「輪」を意味する言葉。
 ではいったい「輪の国」は何処に沈んだのか?
 東日本大震災の時、多くの日本人の魂が輪廻転生から解脱して旅立つことができたのは何故なのか?

 日本には、そして世界にはまだまだ神秘が無尽蔵に眠っている。20世紀後半になってから、世界じゅうに散らばっているこうした点と点が劇的に繋がり始めている。


「与那国島海底地形」 World Diving

『琉球大学理学部教授(現在は同大学名誉教授)木村政昭を中心として調査が行われ、1998年には沖縄県文化局に「遺跡発見届け」が提出された。琉球大学理学部教授中村衛や元沖縄県埋蔵文化センター所長の安里嗣淳らの複数の学者は自然地形説を採っている』(Wikipedia)

これは海底遺跡、自然地形、そのどちらでもなく、古代の「石切り場」であり、ここから切り出された巨石が他の場所で使われたのではないかと私は推測するのだが、果たして真実は如何に?




  今回訪れた「上色見熊野座神社」と「押戸岩の丘」も、そうした神秘の物語の小さな点と点に過ぎない。
 点と点とがつなぎ合わされ線となり、線と線が面になり、やがてその全体像が立体的に浮き彫りになった時に見えてくる風景は、いったいどのようなものになるのだろう。

 風の時代の到来。
 そこに秘められた「メッセージ」が解読されるのも、それほど遠い先のことではないかもしれないと思う。



押戸石の丘巨石群


押戸石の丘巨石群に不思議な線刻文様があることを見つけた南小国町教育委員会はその調査を日本ペトログラフ協会の吉田信啓会長に依頼。
シュメール文字(ペトログリフ)であることが確認されました。
その後、この巨群石は人工的に配置された9組の列石遺構であり、先史時代の巨石文化遺跡であることが、ユネスコ岩石芸術学会をはじめ、アメリカやカナダの岩石芸術学会等の国際学会で認証されました。

押戸石の丘HP





「押戸石」
巨石群の中心をなす高さ5.5m、周囲15.3mの石。
頂点の真北には北極星がある。
この石の周囲では磁気が正常ではなくなる。
方位磁針を近づけると針がぐるりと回った。
磁気を発していた巨石は、対極に位置する2箇所だけが特に強い針の動きを示した。
この2点を結ぶライン上に沿って他の石がほぼほぼ並んでいる。





「鏡石」
蛇神と神聖なる雄牛を表すシュメール文字が刻まれている。
蛇神は「ナーガ」、聖牛は「バール」と読むことから、
ここ南小国「中原(なかばる)」という地名は、
シュメール文字の名残だと考えられている。




「はさみ石」
石の狭間が夏至に太陽が昇り、冬至に太陽が沈む方向になっている。





「祭壇石」
夏至と冬至の太陽が昇る線上(太陽の道)にある。
神事における供え物置場(祭壇)として使用されていたと考えられている。
また、太陽の道と90°に交わる北側の線を水の道、南側の線を火の道と言う。













ツラン文明から発したシュメールと日本

 シュメール人の故郷は、中国奥地のタクラマカン砂漠にあるオアシス「コタン(ホータン)」だと言われている。しかしそれ以前は、コタンからパミール高原を越えた中央アジアの「ツラン」を故郷としていた。今でもカザフスタン南東にツラン平原の名がある。ここはアラル海の東、パミール高原までの平原である。
 一万年以上前の大異変を生き残ったムー文明の人々がここに新しい文明を築いた。
(中略)
 シュメール人は今まで謎の民族と言われ、コタンが故郷であるという言い伝えはあったが、消息がよく分からなかった。これをいろいろな歴史の断片からつなぎ合わせ、空白を埋めることができた。
 すなわち、以下のとおりである。

 ツランの地はユーラシア大陸の中心、心臓部ともいうべきところで、地政学では「ハートランド」といい、ここを征する者は地球を制するともいわれたところだった。そのために1万年以上前の大異変にもビクともしなかった。
 私はこのツランにムー大陸の叡智を保存した民族が集まり、絶滅したムー大陸の精華を守ったのだろうと推測している。
 そしてツラン→コタン→バンチェンと移って文化の華を咲かせ、今から5000年以上前にメソポタミアに上陸し、世界最古の大文明を築いたのである。
 シュメール文字は世界最古の文字で、実は中国の殷の甲骨文や漢字にもその影響がある。
 それから1500年以上(約4000年前まで)シュメール文化を花咲かせたが、山地から出てきたセム族のアッカドのサルゴンによって滅ぼされてしまった。
 以後は海洋民族となって、環太平洋から南北アメリカ、シルクロード、インド洋からマレー、そして終着駅・日本へと、シュメール文化は、アラビア海の海人や航海民族フェニキア人らと共に拡散したのである。

実藤 遠 著『超古代の叡智「カタカムナ」と「ゼロ理学」』






The Epic Of Gilgamesh In Sumerian
(シュメール語のギルガメシュ叙事詩)
Peter Pringle





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燿
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