森の木漏れ日と山紫陽花
今年も紫陽花の季節がやってきた。北九州市高塔山では毎年恒例の紫陽花まつりが開催されている。梅雨入りの遅れに伴い、7万株あまりの西洋アジサイとガクアジサイの開花は全体的に遅く、見頃は来週くらいになりそうだ。
見物客で賑わうエリアを通り抜け、脇道へと進み、急勾配の狭い階段を下る。すると静かな森の木陰に野鳥のさえずりが響き渡る秘密めいた場所に辿り着く。そこには谷間を通り抜ける風に吹かれながら、数十種類の日本原産「山紫陽花」がひっそりと咲いている。
ここは管理者の友田氏が26年間もの歳月をかけてボランティア活動で育成し続けてきた、国内でも珍しい山紫陽花園である。
日本原産である山紫陽花は山中の沢などで自生し、「サワアジサイ」とも呼ばれ、今日では希少品種となっている。
同じく在来種のガクアジサイや、西洋で育種された西洋アジサイなどに比べると小ぶりで地味な存在。花が咲いていなければ、成長過程にある若木が細々と生えているようにしか見えない。
しかし昨年ここで花を見た時には、梅雨の雨粒が装飾花の上で宝石のように輝いている姿にうっとりしてしまう。
今年はと言えば、森の青い光と影が生み出すグラデーションの中で、色とりどりの山紫陽花がゆらゆらと風に揺れている光景にすっかり見惚れてしまった。
たいてい花の写真を撮るときには瞬間的にパッパッとシャッターを切っているが、この時ばかりはカメラを手に持ったまま、やぶ蚊の襲来も忘れるほど、何とも言えぬその幻想的な情景に釘付けとなった。
森や林の樹々と降り注ぐ陽光とが織り成す四季折々の景色。日本ならではの心安らぐ風景美に囲まれながら私たちは生きている。
その情景を「木漏れ日」と言い表した日本人の感性が奥ゆかしい。
この言葉もまた「日本原産」であり、外国語には翻訳できても、直訳できる単語はどこにも存在しないらしい。
ちなみに英語では日本語の「木漏れ日」を何と翻訳するのか調べてみる。
・sunbeams filtering through the trees
(木々の間から差し込む日光が散乱する光)
・dappled sunlight
(まだら模様の日光)
「なんや、そのまんまやん」
という誰かのつぶやきが聞こえてきそうだ。
英語圏の人はその言葉から何を想うのだろう。
日本語の「木漏れ日」という音を聴くと、風景描写と共に心象風景が重なり合って響き合うように感じる。
辺りに満ちる静寂、神々しさ、心にふっと沸き起こるときめき、清々しさ、或いは悲哀さえも忍ばせることができる。
情景描写と言うより、むしろ風景を鏡として浮かび上がってくる内面描写のようであり、その音だけですでに俳句の世界のような深みがある。
最近は〝komorebi〟が海外でも通用するようになったようだ。日本の文化伝統が西洋諸国ではブームになっているが、日本語に内在する感性の美しさ奥深さも理解され受容されるようになった。
日本語の音の響きは使い方次第で創造的にも破壊的にもなる。一音一音の波動が全身の細胞に響き渡る。人に安らぎを与えることもできれば、不快な気分にさせたり、ひどく傷つけることもできる。
こうした美意識や創造性に富んだ日本語の波動が世界へと波及し、平和の礎となればいいと思う。
山紫陽花は一見雑草のように弱々しく見えるが、実際はしっかり大地に根を張り、ゆっくりと成長する落葉広葉樹の逞しさを秘めている。
花もまたとても小さくデリケート。そのほとんどが西洋アジサイの半分以下の大きさで、赤ちゃんの手のひらサイズしかない。
またこの森では栄養素や日光が不足している為か、装飾花が一つか二つしか付いていないものもある。同じ花であっても装飾花の色が違っていたりする。しかしそれらは不完全というよりむしろ個性的なものに見えてくる。
花びらを持たず、僅かな装飾花だけで森に生息する虫たちを惹きつけようとする、その不可解で手の込んだ生存の在り方が何ともユニークだ。
その上、木漏れ日も梅雨の長雨も、どちらも自らの美を演出する味方につけてしまうほど、変幻自在なバリエーションの豊かさは魔術的ですらある。
この花が古くから日本の山中だけに自生していたということは、創造の源である日本の大地そのものが独創的かつ繊細な波動に満ちている一つの証しだろう。
私たちの心の奥底にある不朽不滅の安らぎと深く共鳴し、そっと寄り添う神秘的な花である。
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