愛の使者
九州南部巡り旅③
カモメとの1時間にわたるランデブーを終え、熊本港に到着。ここから有明海に沿って南を目指してひた走る。鹿児島市内に行く前に立ち寄っておきたい次なる目的地は鹿児島県出水市だ。ここに毎年1万羽を超えるツルが越冬のために飛来するとのこと。鹿児島に来たからには是非見ておきたい光景だった。
その前に、途中で出会った別の話題を一つ書いておきたい。
熊本から出水に向かう道すがら通りぬけたのは熊本県内の八代や水俣の街。時々横目でちらりと見える有明の海は、フェリーから見た海と変わらず青く透明で美しかった。
しかしながら嘗てこの土地で、第二次大戦後の日本における高度経済成長期の負の側面である四大公害病の一つ「水俣病」が起こった。当時小学生だった自分にとって、その時に見た認定患者の方々の痛々しい姿の写真は、被爆者の方々のものとほとんど変わらないような、あまりにも衝撃的過ぎるものだった。いったい人間社会とは何なんだという大きな疑問と憤りのようなものを子供であっても感じさせられたものとなった。
この街を通り過ぎる途中で、ささやかだが印象的な出来事があった。
それはほんの些細なある若い女性の一言だった。
熊本から一般道と少しの間高速を走ること2時間。水俣市内の幹線道路沿いにある道の駅で小休止をすることにした。ここでドリップ珈琲のテイクアウトを施設内にあるカフェで注文した。私のすぐ後に来た客が列になって順番を待っていたので、私は支払いを早く済ませようと逆に焦って小銭入れから小銭を取り出すことに一瞬手間取った。
その時、店員の若い20代の女性がそっと声をかけてきた。
「ゆっくりでいいですよ~。」
その言葉はやや強い熊本訛りで聴き慣れない発音だったが、語尾の最後に僅かに微笑みの音を含んでいた。明らかに心のこもった音声だった。
それは何てことはない一言だ。
自分の爺さんと話すような労わりの気持ちも含んでいたのかもしれない。
何か必要以上にサービス精神を発揮しようとしたマニュアル化した力みも感じさせない自然体の言葉だった。
だがしかし、はたと気づいた。これまでの人生で幾度となく遭遇したレジでの支払いの同じシチュエーションで、このような言葉をかけられたことはただの一度もなかったということに。それどころか以前立ち寄ったよその地域のとあるコンビニでは、この同じシチュエーションで若い女性店員から大袈裟なため息をつかれたという経験もあったほどだ。
外のベンチに腰かけながら淹れたてのコーヒーを飲む間、彼女のその一言の余韻はじわじわとコーヒーの熱と共に身体を駆け巡り、それが水俣という土地での出来事ということと相まって、改めて公害問題への意識を呼び覚ますことへと思考が繋がっていった。
水俣病はまだ終わってはいなかった。高度経済成長期は過ぎ去った日本経済の通過点と勝手に位置付けていたが、その陰で病魔にずっと苦しめられた人々が今も同時代に生きているという事実を私はずっと見過ごしていた。
そうした現状が続く中で、あのカフェで働く女性の優しい一言は、苦難が続く街の中にあっても、そしてこの世界の現状にあっても、この地では心の優しさの伝統が今も失われずにしっかりと息づいているということを物語っている。
本題に移ろう。やがて水俣からさらに有明海沿いを南下すること1時間、やっと出水に到着した。陽は随分と傾き、夕暮れに差し掛かる時間帯だったが、何とか写真に収めることに間に合った。
海岸沿いに開ける広大な稲刈り後の田んぼに、鶴たちは群がって餌となるものを啄んでいた。その数は1万羽以上と言われる。ただ広大なエリアに分散しているために、眼に見える光景には数十羽という単位でかたまっているように見える。さらに詳しく見ると2~4羽単位の行動をとっている。夫婦だけの場合と、子どもを連れた家族グループだ。単独行動しているのはパートナー募集中ということらしい。
この渡来地には、全15種類といわれるツルのうち、ナベヅルやマナヅルを中心に、クロヅルやソデグロヅルやアネハヅルなど、数年に一度渡来するものを合わせると、7種類のツルが渡来しているとのこと。特にナベヅルは全世界の生息数の90%がここに飛来するという。
また、これだけの数のツルが人里近くで越冬するのは、世界中でもここだけと言われている。
出水平野でツルが観察された最初の記録は1694年(元禄7年)だそうだ。明治中期に一時乱獲によってまったく飛来しなくなった時期があったが、その後再び数を増やし、2000年以降は毎年増え続けているとのこと。
もう一つ別の話題を付け加えるとすれば、ここに集まる人々についてだ。
写真を撮っていると、地元の人やよそから来た人によく声をかけられた。ツルをきっかけに新たな交流も始まるところが面白い。皆陽気な人たちばかりだ。中にはローカル線を乗り継いではるばる東京からやってきたという中年男性もいた。皆ツルを愛していた。
ツルたちはほとんど下を向いて餌を啄んでいるが、近くに人や近所の飼い猫が視界に入ると、必ず頭を上げて警戒態勢に入るものがいた。その冷静沈着な立ち姿は実に気合の入ったものだった。パートナーや家族を守ろうとする意識がツルの場合、特に際立っているように感じられる。流石シベリアから飛来するだけのエネルギーを持つ鳥だ。
愛のエネルギーそのもの、愛の使者だ。
平和を届け続けておくれ。
いつまでも見ていて飽きなかったが、観察センターにも蛍の光が流れ始め、辺りも薄暗くなってきた。ゲートで車のタイヤに消毒液をかけてもらい、その日の宿泊地である鹿児島に向かってもう1時間走ることにした。
九州南部巡り旅④に続く
クリス・ボッティのトランペットはツルの声にそっくりだ🎺